7つのオペラから構成され、総演奏時間29時間を要する、シュトックハウゼンの巨大プロジェクト《LICHT 光》の最終章《SONNTAG aus LICHT 光の日曜日》の始めての全曲演奏が2011年4月中旬から5月の頭にかけて、ケルン歌劇場の主催で行われました。
この《日曜日》を構成する各場面は、単独演奏の形ですべて初演されていますが(東京でも2005年にこのオペラに含まれる《LICHT-BILDER》が演奏されました)、各場面の演奏形態がことごとく異なり、7つのオペラの中でも最も長大な演奏時間を要する、この作品の全曲演奏は、シュトックハウゼンの生前にはかなわず、今回のプロジェクトを待たなくてはなりませんでした。
念のために書いておくと、本作品は、「オペラ」といってもオケピットがあって歌手が何らかの物語を歌い、演じていくという伝統的な形態とはほとんど関係のない、シアターピースの連作のような様相を呈していています。本プロジェクトでは、その特殊な要求を実現するために、ケルン歌劇場のオペラハウスとは別の、特別な会場で演奏が行われました。
その会場はロビーをはさんで左右にA, Bという2つのホールがあり、5つの場面は、その演奏形態に応じてホールを交替しながら上演されました。最後の場面《HOCH-ZEITEN》は2つのホールで同時に演奏される作品なので、聴衆は半分ずつに分けられ、休憩中にホールを移動することによって2つのヴァージョンを聴くかたちになります。
各場面のタイトル、演奏時間、演奏されたホールは以下のとおりです。
第1場面《LICHTER-WASSER 光=水》52分 Aホール
第2場面《ENGEL=PROZESSIONEN 天使=行進》40分 Aホール
第3場面《LICHT-BILDER 光=映像》41分30秒 Bホール
第4場面《DÜFTE-ZEICHEN 香=印》57分 Bホール
第5場面《HOCH-ZEITEN 至高=時》オーケストラ版&合唱版 35分×2 Aホール+Bホール
《SONNTAGS-ABSCHIED 日曜日の別れ》 35分 ロビー及び会場入口付近
当然ながら、聴衆は作品によって休憩中にホールを移動することになります。しかも自由席で開演直前まで客席に入ることもできなかったので、良い席の争奪戦は毎回激しい物となりました。最後の《SONNTAGS-ABSCHIED》は、終演後にロビーなどでテープ再生の形で演奏される電子音楽で、いわゆるBGM的な位置づけがなされています。
ちなみにBホールは通常のコンサート会場のように前方にステージがある作りですが、Aホールは円形になっていて座席が同心円状に会場中央に向かって並べられていたり、客席自体を取り払ったりと、作品の音響空間に応じたアレンジがなされています。
声楽、器楽はもちろん、ダンサー、映像(3Dメガネも登場!)、匂いまで駆使した、情報量の多いステージは、その良し悪しは別として、このプロジェクトに対する主催者の異例なまでの意気込みを象徴していました。
上記のリストを見てわかるとおり、各場面の演奏時間を単純に足すだけで約5時間となり、各場面の間に休憩も必要なので、1日で全曲を演奏しようとすると殺人的なスケジュールになってしまいます。シュトックハウゼンはスコアに、理想的には3日に分けて演奏されるべき、という注意書きを書いていますが、今回の企画では《LICHT-BILDER》までを第1部、続く場面を第2部とし、2晩で全曲を演奏する、という形態を基本として上演されました。
そして、4月24日と5月1日の2公演では午後から夜にかけて、長大な全曲を1日で演奏する、という演奏家にとっても聴衆にとっても挑戦的な時間設定がなされました。
開演は正午、大きな休憩をはさみ全曲の演奏が終わったのは午後8時、という長大な演奏会となりましたが、ほとんど疲れを感じることなく、全曲を聴き通すことができたのは、我ながらちょっとした驚きでした。
ちなみに、私は楽日となった5月1日の公演と、その数日前に2部構成で上演された、計3日間の公演を聴きました。
主なスタッフは以下のとおりです。
音楽監督:Kathinka Pasveer & Peter Rundel
演出:Carlus Padrissa (La Fura dels Baus)
舞台デザイン:Roland Olbeter
映像:Franc Aleu
演奏:
オーケストラ:musikFabrik(指揮:Peter Rundel)
合唱:カペラ・アムステルダム、エストニア・フィルハーモニー室内合唱団、ケルン歌劇場合唱団(指揮:James Wood)
ほか
《光の日曜日》は、《LICHTER-WASSER 光=水》という二人の歌手とオーケストラによる作品で幕を開けます。
photo: Klaus Lefebvre
会場中央の柱に向かって、同心円状に白い椅子が並べられ、29人のオーケストラ奏者は、その客席の中に散らばって演奏します。さらにテノール歌手(ミヒャエル)とソプラノ歌手(エーファ)は客席内を歩き回りながら歌う指定がスコアにありますが、今回の演出では、クレーンで体を持ち上げられたテノール歌手が客席上方を移動しながら歌い、ソプラノ歌手は5人ほどのダンサーで取り囲まれた神輿状の台車の上で歌うようになっています。指揮者および演奏者は宇宙服をイメージさせる衣装を着ているので、宙に浮かんで歌うテノール歌手は、さながら宇宙遊泳という趣でした。冒頭の歌い出しから、いきなり空中で横に倒れた姿勢で、さぞかし演奏は大変だったかと思います。
円形の会場の、客席を取り囲む白い壁には太陽系の様々な天体画像が映しだされますが、これは本場面の歌詞の大半が、ひたすら太陽系の惑星や衛星の名前を連ねていくことと関係しています。
そして、前述の白い椅子は、椅子というよりはほとんどビーチベッドのような形状で、聴衆が、壁だけではなく天井にも映しだされる映像を見たり、宙を舞うかのような二人の歌手を下から見上げることを意図したのだと思いますが、リクライニングがきつすぎて、結局首だけ持ち上げて会場内を見るような格好になってしまいました。
photo: Klaus Lefebvre
音楽は、高音域で演奏されるミヒャエル・フォルメルと低音域のエーファ・フォルメルの2声のメロディーが、音色旋律で奏でられるというアイデアで作曲されていますが、メロディーの各断片が楽器間でどのように受け渡されて繋がっていくかが周到に計画されているので、2声のメロディーが聴衆のまわりを音色を変えながらぐるぐる回っていくような効果が生まれます。
同時に、歌手も様々に移動しながら歌ったり、基本的に客席内の定位置で演奏しているオーケストラの奏者がある場面で、壁際に用意された壇上に集まってファンファーレのようなものを奏でたりと、作品全体が音響の空間移動のさまざまなアイデアで満たされています。
オーケストラ奏者がばらばらに入場しながら演奏する導入部から、オーケストラ奏者の退場後、神秘的なムードで退場していく二人の歌手によるコーダに到るまで、会場の空間を浮遊する白昼夢のような響きは、このオペラのテーマである「ミヒャエルとエーファの神秘の結婚」に相応しいものでした。
音楽面の充実に対して残念だったのが、情報過多な演出プランです。これは他の場面も含めた本プロジェクト全体に言えることでもあるのですが、あまりにも視覚情報(しかも音楽と無関係)が多すぎて、もともと情報量の多い音楽に集中できなくなってしまうのです。作品をよく知っている私ですら、1度目の公演では音楽を十分聴き取ることができなかったほどですから、はじめてこの作品に接する人には演出面での印象しか残らなかったのでは、と思います。
例えば、天上からいくつかぶら下がっていた布状のものが途中から何やらモゾモゾ動き始めたと思ったら、ほぼ全裸に近いダンサーが隠れていて、だんだんと姿を表してパフォーマンスを始めたり(1度目の公演の時には私の座席の真上にいたので、色々な意味で目が釘付けに…)、様々な天体の映像に加えて、宇宙船のコンピュータのモニタ画面を思わせる映像が、かなりの自己主張をしながら映写されたり、といった感じです。
photo: Klaus Lefebvre
さらにもう一点惜しまれるのが、ソプラノ歌手が病気のため出演をキャンセルしてしまったことです。初日から何度かの公演では普通に歌っていたようですが、私が聴いた、最後の2回の本番では、ともに出演することができませんでした。
このような特殊な作品ですので、カバー歌手を用意する余裕もなく、通常なら演奏自体が成り立たないのですが、前の本番で録音していたソプラノ歌手の音源に合わせて、指揮者が棒を振り演奏、ソプラノ歌手の動きは急遽別のダンサーが演じる、ということで演奏を成立させてしまいました。
ソプラノ歌手の声が聴こえる方を向いても、そこで踊っているだけの(口パクすらしていない)ダンサーがいるという状態には違和感を感じますし、本来想定していなかった、録音と生演奏の同期も、語尾の子音のタイミングがわずかにずれるなど、よく聴けばうまくいっていない部分もありましたが、何も知らずに音だけ聴けば、普通に演奏して少しずれた、としか感じられないほどのレベルで、キャンセル自体は残念ではありましたが、音楽そのものは十分に堪能することができました。
そしてそのような離れ業を短期間の準備でやってのけた指揮のPeter Rundel氏の「技」(耳で合わせる以外に、録音音源の波形も見ながらシンクロさせていたようです)にも感銘を受けました。
演奏:
オーケストラ:musikFabrik
指揮:Peter Rundel
ソプラノ:Anna Palimina(キャンセル)
テノール:Hubert Mayer
シンセサイザー:Urlich Löffler
サウンド・プロジェクション:Paul Jeukendrup
第2場面《ENGEL-PROZESSIONEN 天使=行進》は、その前の《LICHTER-WASSER》と同じ円形の会場(Aホール)で演奏されました。客席も同じ同心円状の配置ですが、基本的にオーケストラ奏者が客席内に散らばって定位置で演奏していた《LICHTER-WASSER》に対して、こちらでは、7群に別れた天使役の合唱(各群6人)が客席のあちこちを歩き回りながら歌う、という趣向になっています。
《LICHT》では、7つの曜日にそれぞれを象徴する色(月曜日=緑、火曜日=赤etc.)が関連付けられていますが、7つの曜日を象徴する7群のコーラスは、この7色の衣装を身にまとい、さらに演奏時には歌い手自身がスイッチを操作して衣装が光を発する仕掛けが施されています。基本的に、7群のコーラスが次々と交替しながら歌う構成になっているので、照明の落とされた会場のあちこちで、7色のコーラス隊が明滅するような結果となります。
作品が進行していくごとに副次的なコーラスも徐々に同時演奏するので、この衣装の効果もだんだんと派手になっていくことになります。こうした照明の効果はスコアには指定されていませんが、作品の構造が視覚的にも分かる好アイデアだと思いました。
例外的に4人のソリストで構成される第7グループの各歌手と、部分的に指揮をする指揮者は台車のようなものに乗って客席内を移動しますが、それほど厚い音響を持たない作品だけに、車輪のわずかなノイズでもそれなりに目立ってしまったのが惜しまれます。
暗闇でも指揮が見えるように装着された手のひらで白く発色するLED(?)は、演奏上必要だったのかもしれませんが、変に目立ってしまったのは残念でした。
photo: Klaus Lefebvre
この作品の全体を通じて「トゥッティ・コーラス」という、さらに別の24人編成のコーラスも演奏に加わっています。このコーラスは円形の壁ぞいに聴衆全体を取り囲むように並び、終始ピアニッシモで持続和音を歌い続けて、音響的なエーテルのような役割を持っています。客席内のコーラスが歌っている間は音がカバーされて聞こえなくなりますが、こちらが休符などで音がなくなったときに、かすかに聞こえている格好となります。地味な存在ですが、360度から聞こえてくる甘美な音響に包まれる感覚は、生演奏でなくては味わえない貴重なものでした。
作品の一番最後には、7群のコーラスが全員で歌うコラール風のコーダが付け加えられていますが、CDだと混濁して聞こえた入り組んだハーモニーが、空間的に離れた場所で演奏する生演奏だとすっきりと聞こえました。
この部分に先立って、竹馬のようなものを装着し、手にはプラスチック状の飛行機の羽根のようなものをつけたロボットっぽい衣装のダンサー(これも天使?)が次々と入場、トゥッティ・コーラスの各歌手の間に入り込んで、一緒に神を讃えるようなポーズをとっていました。この人達はあとの場面でも登場するのですが、個人的には蛇足としか思えませんでした。
このように、どの場面でも必ず何か「余計」なことをやってしまう過剰演出が本プロダクションの問題点ですが、この場面では全曲を通じてもっとも「余計度」が少なく、音楽に集中しやすい環境が作られていました。
ちなみに7群のコーラスの歌う楽譜は、各種特殊唱法が満載、テクスチュア的にもかなり入り組んだ演奏至難なものですが、作曲者存命中に行われたこの場面のみの単独初演でシュトックハウゼン本人の薫陶を受けた、指揮のJames Woodが複雑なスコアをうまくまとめ上げ、見事な演奏へと結実させていました。カペラ・アムステルダムとエストニア・フィルハーモニー室内合唱団の高度なアンサンブル能力も今回の名演に貢献したことは、言うまでもありません。
余談ですが、関係者からの情報によると、意気投合した2つの合唱団の行き過ぎた酒盛りが原因で、公演期間中の飲酒禁止令が出たようです。きっとリハがものすごく大変だったのだと同情しますが(笑)、その甲斐あった素晴らしい演奏でした。
演奏:
指揮:James Wood
合唱:カペラ・アムステルダム、エストニア・フィルハーモニー室内合唱団
ケルン歌劇場合唱団(トゥッティ・コーラス)
ソプラノ独唱:Csilla Csövári
アルト独唱:Noa Frenkel
テノール独唱:Alexander Mayr
バス独唱:Michael Leibundgut
第3場面《LICHT-BILDER 光=映像》は、その前の2つの場面が上演されたAホールの逆側のBホールで演奏されました。円形の特殊な客席配置だったAホールに対して、こちらはステージが客席前方にある通常のホールです。
オーケストラ、合唱といった大人数のアンサンブルの作品に続き、本作はテノール、トランペット、バセットホルン、フルートという4人のアンサンブルによる室内楽編成となります。こうした楽器編成の変化による効果は、全曲通して聴いてはじめて明らかになりますが、ここまでの2つの場面では客席いっぱいに広がっていた音響が、ここで一転し、せまい空間に凝縮されるような効果を生みます。
テノールとトランペット、バセットホルンとフルート、という二組のデュオが織りなす緊密なポリフォニーは一見地味なものの、音楽が耳に馴染んでくるにつれ、その驚異的な造形美がじわじわと体感できるようになります。本作は2005年にシュトックハウゼンが来日公演を行ったときにも演奏されましたが、その時よりもさらに音楽そのものの面白さを楽しむことができました。
二組のデュオはそれぞれ、一種の複雑なカノンを構成しますが、スコアに指定されている動きを伴うことにより、視覚的な面からもその構造が強調されます。オペラ形式の上演では、そこにさらに映像が加わりました。
この映像は、4人の演奏者の背後の巨大なスクリーンに映写されますが、今回のプロジェクトではその映像が3D上映されました。休憩時にホールを移動する際、会場スタッフの人から3Dメガネを配布される光景がオペラ上演で繰り広げられるのは、なんとも不思議な気分でした。
テノールによって歌われる歌詞は、短い神への賛美の言葉、そして神の創造物の名前の長大な羅列で構成されますが、ここで歌われた名前が立体映像で次々と現れる、という仕掛けになっています(時おり、映像がその前に立っている演奏者より前方に感じられるのは、音楽そのものとは関係ないものの、面白い体験でした)。このような臨場感あふれる3D上映を採用したことで、テノールが名前を発すると、魔法のようにその実物があらわれるかのような興味深い効果が生まれました。ただ、それがリアルなだけに、歌詞と映像の齟齬(様々な聖人の名前を歌っているのに、延々と仏像のCG映像が流れるetc.)は残念に感じられました。
そして、このBホールのステージ全面には水が張ってあって、長靴をはいた演奏者がその中で歌う演出になっていましたが、これもやはり「余計」と評価せざるをえませんでした。
「水」という要素は、《光の日曜日》のオペラの内容とも無関係ではないですし、視覚的にも美しいのですが、演奏者が常に何らかのジェスチャーを行いながら演奏するこの曲では、それに伴う水音が音楽の邪魔をしてしまう結果となります。トランペットとフルートに施されるリング変調の効果も聴きづらくなりますし、実際そうした配慮がなされていないことは、フェルマータで静止している部分、全員が休止している部分でも水音がかなり目立っていたことからも明らかでした。
特殊奏法による気息音などのノイズも音楽の重要な要素になっているのに、「水音」という、誤って音楽要素として認識されかねないものを無神経に付加することによって、音楽を破壊してしまったのは本当に残念でした。
さらに、何箇所かでは、スクリーンが舞台袖に引きこまれ(このノイズも気になりました)、そこから舞台後方で10名ほどのダンサーが水の中で踊る部分もありましたが、ここでの水音の大きさは相当なものになりましたし、演劇的な必然性も全く感じられない「見世物」的な効果にとどまっていました。
この作品の4人の演奏者のうち2人が初演時のメンバーと入れ替わっていることは、シュトックハウゼン演奏史においては、さりげなくも重要なポイントかもしれません。
なぜなら、入れ替わったメンバーは、シュトックハウゼンともっとも関わりの深いSuzanne StephensとKathinka Pasveerの二人だからです。この二人のかわりに今回ステージに立ったのは、その弟子の世代の二人ですが、来日公演で聴いた演奏と比べて遜色が無いどころか、今回の方が、むしろある種の余裕すら感じられたのが印象的でした。
テノールとトランペットの二人は初演と同じメンバー、当然、カティンカ、スージーの二人は自身の豊富な演奏体験をもとに徹底的なレッスンをつけているはずなので、そうした条件が良い結果に結びついたのかもしれませんが、「ファミリー・オペラ」などと揶揄されることの多かったシュトックハウゼン作品の演奏の様相が、一歩新しい方向へと進み始めた重要なポイントであると思います。
ちなみに、Kathinka Pasveerは音楽監督およびサウンド・プロジェクションを担当することによって、シュトックハウゼン本人がかつて行っていた立場を引き継いでいますが、Suzanne Stephensは表向きのクレジットはリブレットの英訳のみ、公演中は、一聴衆として作品を聴いているだけでした。合唱やオーケストラの出番も多い本上演では、ファミリー・オペラ的様相はほぼ消滅していると言えるでしょう。
演奏:
テノール:Hubert Mayer
トランペット:Marco Blaauw
フルート:Chloé L’abbé
バセットホルン:Fie Schouten
シンセサイザー:Benjamin Kobler
サウンド・プロジェクション:Kathinka Pasveer
続く場面は、同じくBホールでの《DÜFTE-ZEICHEN 香り=印》です。この作品は7人の歌手、ボーイソプラノとシンセサイザーのための1時間弱の作品ですが、シンセサイザーは持続和音を伸ばすなど音楽的背景の役割にとどまっていることもあり、《光の日曜日》の中では音楽的にもっともシンプルかつ静的な場面となります。
僧侶のような出で立ちの歌手たちが、独唱から三重唱までの様々な組み合わせで、7つの曜日に関連付けられたマークや香りについて順番に歌っていく構成になっていて、演奏とともにそのマークや香りが実際に提示されます。
2003年の単独初演の際には、各曜日をあらわすマークが描かれた布がロール状に巻かれていて、順次それが旗を掲揚するような要領で広げられていく演出だったのが、今回は各マークの形に炎が燃えるように作られた大きなオブジェ(鉄骨のまわりに油をぬった布が巻きつけられている)がダンサーによって順番に運び込まれるというプランに変更されていました。
photo: Klaus Lefebvre
《LICHT-BILDER》と同様、水の張られた舞台での演奏ですが、このオブジェをダンサーが出し入れしたりする際にやはり水音のノイズがうるさく、水にまみれながらモソモソと入退場を繰り返すダンサーも、黒子的役割を超えた「うるさい」印象になってしまったのが惜しまれます。この各曜日のマークは、ステージを徐々に覆い尽くしていくスモーク(詳しくは後述)を利用して照明でも映写されましたが、こうした演出効果の印象が強すぎて、その前で様々なジェスチャーを作りながら歌っている歌手の存在感が希薄になってしまったのも残念でした。炎のオブジェが歌手に対して逆光の位置関係になって、歌手の動きがほとんど見えなくなる場面すらありましたし、このオブジェがグルグルと回転する場面は、ほとんどサーカスでした。
各曜日のマークと同様に重要な本場面のアイテムは、「香り」です。各曜日に、世界中の様々なお香が割り当てられていて、順番に各歌手がその7種類のお香をたいていくのですが、これまでの演奏での問題点は、その匂いが客席まで十分に届かなかったことでした。今回のプロジェクトではそれを解決するため、お香を持った黒子二人が客席の両サイドを歩くことによって客席全体に匂いを行き渡らせるように工夫し、完全ではないもののそれぞれの香りの違いを楽しむことができました。
ステージ上でも、歌手が様々な方法でお香をたきますが、あるときは舟の模型の上に、またある時は歌手の頭上の特殊な帽子の上など、視覚的な変化は富んでいるものの、やはり、ここにも演出の過剰さは否めませんでした。最後の方ではステージの大部分がスモークで隠れるほどで、あの状態で歌手が咳き込まずに歌えるのか心配になるほどで、これもやりすぎのように思われました。
photo: Klaus Lefebvre
7人の歌手の歌う旋律線は、シンプルさと音響造形の見事さが同居した、シュトックハウゼン晩年の円熟を象徴する美しいものですが、頻繁なテンポ変化や声楽的な要求の高さなど、演奏は決して簡単ではありません。今回の演奏で、初演時にも歌ったことのある歌手は二人だけでしたが、他の歌手も総じて大健闘、美しいアンサンブルを聴かせていました。ただ、例えばバス・パートを歌ったMichael Leibundgut、決して悪い演奏ではなかったのですが、初演を歌ったNicholas Isherwoodと比べると、シュトックハウゼンの求める発音、アーティキュレーションの明晰性には物足りなさを感じましたし、バスのソロ部分に頻出する「いびき」の思い切りも今一歩でした。
今回のプロジェクトで最も賞賛されるべき演奏者は、ここでもテノール・パートを歌ったHubert Mayerでしょう。彼は《LICHTER-WASSER》《LICHT-BILDER》《DÜFTE-ZEICHEN》の3場面で、演奏至難なテノール・ソロのパートを(当然すべて暗譜で)歌っていますが、この登場頻度は、今回のプロジェクトの全演奏者の中で最多となります。これらの作品は、楽譜の複雑さと求められる演奏技量、スタミナなどを考えると、単独で演奏するだけでも大変なのに、疲れた顔ひとつ見せずにこれだけの分量を飄々と高い完成度で演奏してしまう様には、唖然とするほかありません。開演直前、演奏後に何度か話をする機会もありましたが、これほど大変な仕事をやっている緊張感、悲壮感のようなものが顔の表情からまったく窺い知ることができなかったのも驚きでした。ちなみに、さすがに今回は降り番となった《ENGEL-PROZESSIONEN》も含め、《光の日曜日》のテノール・パートはすべて彼が初演を担当していて、《魔笛》のタミーノを思わせる柔らかい声質が、シュトックハウゼンのイメージにぴったりだったこともうかがえます。
さて、《DÜFTE-ZEICHEN》の作品自体に話題を戻しますが、7つの曜日の香りとマークについて歌う主要部分に続いて、この場面、あるいは《光の日曜日》でもっとも重要な部分へと移行します。突如、どこからか、アルトのふくよかな声が聴こえ、それまでステージで歌っていた6人の歌手は客席後方へと向かい、黄金の衣装を着たエーファ(アルト歌手)が6人の歌手に先導されてステージ中央に向かいます(アルト歌手が歌う背後では、6人の歌手が《STIMMUNG》を彷彿とさせる倍音唱法を披露しますが、初演メンバーによるCDと比較すると、ここの効果は今ひとつでした)。
そして、エーファがさらにミヒャエルを召喚し、彼も客席後方から現れます。《LICHT》のほとんどすべての場面でテノール歌手またはトランペット奏者として現れるこのキャラクターが、ここではボーイソプラノとして現れます。
つまり、成人男性として描かれていたミヒャエルがここで突如少年に変化する、ということで、《LICHT》全曲の終結間近での重要な転換点となります。声種も、ミヒャエルがテノールからボーイソプラノへ、エーファがソプラノからアルトへとそれぞれ交替することで、この転換を音楽的に表現します。アルトの声が《LICHT》の中で大きく扱われるのは、唯一この場所だけという事実も極めて重要です。
《LICHT》の作曲にあたってシュトックハウゼンが参照した奇書《The Urantia Book》では、ミヒャエルはイエス・キリストと同一視され、同時に、この部分でエーファは「エーファ=マリア」と呼ばれることから、聖母マリアと一体化して捉えられていることが明らかです。
《光の日曜日》のテーマは「ミヒャエルとエーファの神秘の結婚」ですが、ここではそれがマリアとイエスという母と子の関係に置き換えられ、敬虔なカトリック信者であったシュトックハウゼンの宗教的源泉が顕となります。この神秘的な二重唱に差し掛かると、作品をよく知っているはずの私でも、あまりの美しさに思わず息をのみました。そして、この二重唱の最後で、白馬(の形をした木馬風の装置)が現れ、馬に乗って飛翔しながら去っていく暗示的なエンディングは、このオペラのもっとも美しい瞬間でした。演出に関しては、前述のとおりかなり不満がありますし、この場面に関しては、声の増幅の仕方(リヴァーブの処理など)が音質などの面でベストだったとは言えなかったのですが、そうした欠点をここでは忘れてしまうほどに完全にノックアウトさせられました。
photo: Klaus Lefebvre
《KLANG》の《HIMMELS-TÜR 天国への扉》でも扉が開いた後、サイレンが鳴る中、少女が扉の向こうへ歩いて行くシーンとの共通性も感じさせ、ボーイソプラノという声と宗教的な内容の結びつきは初期の重要作《GESANG DER JÜNGLINGE 少年の歌》を想起させますが、シュトックハウゼンが亡くなった今、この場面に接し、何とも言えない気持ちになりました。
ソプラノ:Csilla Csövári, Maikr Raschke
アルト:Noa Frenkel
テノール:Hubert Mayer, Alexander Mayr
バリトン:Jonathan de la Paz Zaens
バス:Michael Leibundgut
ボーイソプラノ:ドルトムント・アカデミー合唱団のメンバー
シンセサイザー:Benjamin Kobler
サウンド・プロジェクション:Kathinka Pasveer
《光の日曜日》の最終場面は《HOCH-ZEITEN 至高=時》と名付けられた極めて特殊な作品となります。ドイツ語が少しでも分かる方ならこのタイトルが「結婚 Hochzeit」を暗示していることもすぐ分かるでしょう。このオペラのテーマは「ミヒャエルとエーファの神秘の結婚」ですが、それにちなみ作品の全編が様々な要素のペアリングに満たされています。
最も特徴的なペアリングは、基本的に同じ楽譜に基づく、オーケストラ版と合唱版という二つのヴァージョンが2つのホールで同時に演奏されるということです。この両者の演奏は無線通信で同期され、作品内の各7箇所で、他ホールの演奏の音声(と中継映像)が生演奏とミックスされます。
本プロジェクトでは、もともと場面ごとに2つのホールを使い分けて上演されていましたが、ここでは、この2つのホールが同時に使用されることになります。
オーケストラ版はBホール、合唱版はAホールで行われましたが、演奏自体は各ホールで2度行われ、半分に分けられた聴衆が休憩中にホールを移動することとなります。
以下の写真は、ホールの割り当てのために前場面の終了後、会場スタッフから渡されたカードです。
私がもらったのは2公演とも金のカード、こちらはA→Bという順序に移動、もう一種類の白いカードにはB→Aの順序で移動する指示があります。
という訳で、私がまず聴いたのは合唱版の方、こちらは円形のAホールで演奏されました。
今回のプロジェクトでは合唱団の生演奏ではなく、初演時の演奏者、WDR合唱団による5チャンネルの録音の再生に合わせてダンサーが踊る、というスタイルが取られました。なぜ、5チャンネルのミックスかというと、全体が5群のコーラスに分けられ、各群が固有のテンポ、言語で歌う、という楽曲構成と関係しています。
この5チャンネルのスピーカーが聴衆を取り囲むように均等な間隔で配置され、その各スピーカーの前に5群のダンサーが踊るアイデアでこの場面は演出されていました。各群が別々の言語(ヒンズー語、中国語、アラビア語、英語、スワヒリ語)で歌うのに対応し、5群のダンサーはその言語に対応した人選、衣装の選択がなされていました。つまり、会場の中央から周りをぐるりと見渡せば、5つの異なる民族が同時に踊っている、ということになります。地球上で多様な民族が同時に生活している縮図の提示が、本演出のコンセプトです。
タイトル通り、各民族はそれぞれの民族衣装による結婚式をイメージさせる衣装で踊ります。なぜか中国チームの花嫁側は西洋式のウェディング・ドレスだったのはご愛嬌でしょうか。
photo: Klaus Lefebvre
ちなみに、同会場で、第1場面、第2場面で置かれていたビーチベッドのような白い椅子は完全に撤去されていて聴衆は立ったまま作品を聴くことになります。しかもステージと客席の境目は全くないので、聴衆は会場内を自由に動き回りながら、5箇所に別れて踊っているダンサーの各グループを見る格好となります。歩行者天国で色々な場所で自由にパフォーマンスしている人を見物するようなイメージといえば良いでしょうか。
ダンサーの配置上、自ずから、5つの各グループを聴衆がぐるりと取り囲むような感じになりますが、そのため同時に異なる民族が踊っている様を見ようとしても、聴衆の背中が邪魔になってほとんど不可能、音楽で喩えると5声のポリフォニーの全体像を聴くことができずに、1〜2声部しか常に同時に聴けない、という状況が私にとってはストレスでした。
この場面でも、今までの場面に出てきたいくつかのアイテム(台車、火など)が再利用されていて、突如ダンサーが客席の間に割ってきたり、なぜかダンサーとお客さんが踊り始めたりと、これまでの場面でも過剰気味に感じられていた演出は、まさにやりたい放題、という感じでした。もちろんそれぞれのアイデアは面白いですし、単なる「見世物」としてはクオリティが高いのですが、「音楽を聴く」という視点にたつと、非常に劣悪な環境であったと言わざるをえません。5チャンネルのスピーカーから流れる合唱の演奏は、長期間のリハーサルを重ねた明晰度の高いものなのですが、5つの異なるテンポが同時進行する極めて複雑な作品を、この情報の洪水のような演出とともに聴くことは全くできませんでした。2度目に聴いた時には出来る限り聴覚に集中し、ダンサーの動きをできるだけ見ないようにして、ようやく音楽に耳を傾けることができました。
この作品の7箇所で、もう一つのホールで演奏しているオーケストラの音声が、中継されて、こちらの演奏にミックスされますが、それと同時にその演奏の映像も映写されます。この映像は、円形の会場の周りの壁に映写されますが、それ以外にも、世界中の様々な街や村の様子を写した映像が大量に映し出されているため、他のホールから中継された、という効果が薄まっていたのが残念でした。
この作品で印象的なのが、作品の終盤に入る頃、突如ステージにトランペッターが現れ、合唱団内の一人のソプラノとデュオを繰り広げるところなのですが、今回の演出ではそのトランペッターが宙を駆ける白馬に乗って現れます。この白馬は、もちろん、《DÜFTE-ZEICHEN》の最後に、子どものミヒャエルを乗せて行った白馬と同じですが、ここでのトランペッター(ミヒャエルを象徴する楽器)は大人になっています。テープ上演ということもあり、このトランペッターが完全に吹いているまねをしているのがありありと分かってしまうのは残念でしたが、このアイデア自体は非常に効果的だと思いました。
スコアには単に「トランペット奏者がステージに現れる」という指示のみですが、この白馬の演出は演出家のアイデアということだそうです。
photo: Klaus Lefebvre
この幻想的な場面も終わり作品が向かい始めると、ダンサーが徐々に聴衆を客席中央に追い込み始めます。そして聴衆のまわりには車輪状の白いオブジェが並べられますが、これはよくみると、前の場面で使われていた客席用の椅子を組み合わせたものでした。
ダンサーが聴衆を取り囲むのとほぼ同じタイミングで別のダンサーもそこに加勢しますが、彼らは《ENGEL-PROZESSIONEN》の最後に登場したロボット風の天使(?)でした。楽曲の結尾で、彼らの両手に取り付けられたプラスチック状の羽根やライトが先についた細い棒を高く掲げ、最後の無音状態で照明の明かりがゆっくりと強くなることによって、このオペラのタイトル「LICHT 光」を暗示し、この場面の上演が終わりました。
なぜ、私がこちらの合唱版を先に聴き、オーケストラ版(こちらは次回アップ予定)を後にする順番で2度とも聴いたかというと(白いカードをもらえば逆順で聴くことで、違った体験ができました)、視覚に偏り過ぎたこの演奏で全曲を終えるのは嫌だと感じた、という事情があります。
私と同じく、日本からこの公演を聴きにきた清水穣氏は、この場面のことを「オリンピック」のようだ、と言っていましたが、実は今回の演出家の関わるLa Fura dels Bausはバルセロナ・オリンピックの開会式で有名になったことが分かりました。
演奏:
指揮:Rupert Huber
合唱:WDR合唱団(5チャンネルによるテープ上演)
ダンス:ad hoc Ensemble
サウンド・プロジェクション:Kathinka Pasveer
半分に分けられた聴衆は休憩中にホールを交替、私は休憩後、Bホールでオーケストラ版を聴きました。
そもそも、《HOCH-ZEITEN》のオーケストラ版は合唱版の楽譜をオーケストラに置き換える発想で作曲されているので、楽譜は基本的に同一です。つまり本版では、5群に分けられたオーケストラがそれぞれのテンポで演奏する、ということになります。
こちらは生演奏ですから、この複雑なポリテンポを実現するために5人の指揮者が各群の奏者を指揮しますが、3人の指揮者を要する《GRUPPEN グルッペン》と比べても桁違いにテンポの重なり方が複雑なこの作品のテンポ同期は人間業では不可能なので、クリックを聞きながら指揮をすることになります。演奏の全体をまとめ上げるのは、この曲の最後のみを客席から指揮するPeter Rundelですから、ステージ上の5人の指揮者は純粋に拍を出すだけということになります。今回のプロジェクトではオーケストラを担当したmusikFabrikと関わりのある打楽器奏者にその役割が任されました。その内の一人はなんと、現在ドイツに在住する日本人のパーカッショニスト、渡邉理恵さんでした。終演後に少し話を聞くことができたのですが、全体のサウンドを把握できず(逆に他のグループを聴くと演奏は極端に困難になりますが)、ひたすらイアホンから聞こえてくるクリックの通りに指揮をするというのは、かなり大変だったようです。
その一方、シュトックハウゼン本人(拍のカウント)とカティンカ(ページ数のカウント)の二人の声によるクリックトラックを聴く密かな楽しみもあったようです。曲の最後の方になると明らかに声が疲れてきているとか、お腹がグーと鳴っている音も漏れ入っているクリック・トラックがあるとか、演奏者ならではの楽しい裏話も聞けました。
さて、私は一度目の演奏の時には客席中央のミキサー席の少し前の席で聴きましたが、オーケストラの前方に様々な映像を写す紗幕があり、おそらくそのためにサウンドが幾分ぼやけて聴こえていました。5群のオーケストラは、それぞれの色の照明が当てられ、その前にAホールの中継映像を含む様々な映像が「半透明」に映写されるコンセプトでしたが、作品の後半、この紗幕が開いた途端にサウンドの明晰性が若干増したので、はじめからこの状態で聴きたかった、というのが正直な感想です。
極めて情報量の多いスコアなのですが、適切に演奏されないと各群の細かい動きが聞き取れず、ダラダラと持続和音が続くだけの退屈な曲に捉えかねないのですが、一度目に聴いたときにはまさにそのように聴こえてしまいました。紗幕の影響を疑って二度目は最前列で聴いてみたところ、一度目では聴こえなかった細部がはっきりと聴こえ、作品の躍動感や細やかな音色の変化を堪能することができました。
photo: Klaus Lefebvre
合唱版にはないオーケストラ版の大きな特徴は、オーケストラ内のメンバーによる7組のデュオ(1箇所のみトリオ)です。
この挿入部分は《LICHT》の7つのオペラから引用した「回想」的な意味合いがありますが、そのほとんどが二人の奏者によって行われることも、当然「結婚」とリンクしています。
この挿入部が演奏されるときは、その二人(または三人)の奏者は、通常演奏している場所を離れ、オーケストラの前方や後方の高く作られた舞台に移動し、仲睦まじい様子で演奏をします。
実は、2003年にケルンのフィルハーモニーで行われたこの作品のドイツ初演の実演も聴いているのですが、その時は、合唱版の素晴らしい演奏とは裏腹に、オーケストラ版の低いモチベーションが特に挿入部でのソリストの演奏に感じられたことが記憶に残っています。
しかし、今回はmusikFabrikのメンバーの演奏意欲の高さが演奏にも良い方向に働き、この一連のデュオとトリオの演奏は、この長大なオペラを締めくくるのに相応しいものでした。
フィルハーモニーでの演奏の際には、客席の一部も使って、5つの各群を左右に大きく離しての演奏でしたが、今回はホールのステージの横幅が十分でなかったので、各群の奏者がかなり接近して座り、各群のキャラクターの違いが十分に明確でなかったこと、紗幕に映しだす映像のセンスに疑問を感じた(二重奏の場面で、演奏されている楽器のイラストを映写するetc.)などの不満はありましたが、本プロジェクトの中では控えめな演出だったのが、音楽を楽しむ上では良い結果となったといえます。
photo: Klaus Lefebvre
終演後、ロビーに出ると、すでにロビーで《SONNTAGS-ABSCHIED 日曜日の別れ》が演奏されていました。これは《HOCH-ZEITEN》の5台のシンセサイザーによる別ヴァージョンですが、一種のBGMとして意図されています。ロビー内のスピーカーの品質はあまりよくなかったのですが、事前に得ていた情報通り会場の外に出てみると、屋外に向かってもスピーカーが5本設置されていて、こちらは良い音質で楽しむことができました。当然早々と車で帰宅する人もいて、そうした環境音も混ざってきますが、5台のシンセサイザーのやりとりがクリアーに迫ってくるのが楽しく、結局入口付近で最後まで聴く事になりました。
7回に渡る長大な連載となりましたが、これが2晩、または1日かけて演奏されたオペラ一曲分となります。《LICHT》 を構成する、オペラとしての全曲演奏は、1996年の《FREITAG aus LICHT 光の金曜日》以来なので15年ぶり、そしてシュトックハウゼン没後の初めての演奏となります。作曲者がいないことで、苦労した面、逆に揉め事にならなかった面(笑)、双方あると思いますが、シュトックハウゼンが生前から地道に続けていた、正統的な演奏によって作品を後世に残すための努力が、今回のプロジェクトの成功につながったと感じました。
あとは《MITTWOCH aus LICHT 光の水曜日》の全曲初演(2012年バーミンガムで実現済み)、そして《LICHT》全曲の通し演奏を残すのみです。聴衆の反応も概して熱狂的で、不可能のように思われるこれらの悲願も遠くない未来に実現されそうな気がしました。
演奏:
HOCH-ZEITENオーケストラ版
指揮:Peter Rundel
オーケストラ:musikFabrik
サウンド・プロジェクション:Paul Jeukendrup
SONNTAGS-ABSCHIED
シンセサイザー:Mark Maes, Frank Gutschmidt, Fabrizio Rosso, Benjamin Kobler, Antonio Pérez Abellán
サウンド・プロジェクション:Kathinka Pasveer
#本記事のはじめに貼りつけた動画では、《光の日曜日》の各場面すべてのダイジェスト映像を見ることができます。また、本連載記事の写真掲載に関し、シュトックハウゼン音楽財団のKathinka Pasveer女史のご協力を頂きました。深く御礼申し上げます。