シュトックハウゼン講習会レポート(2006年)

KLANG1時間目:昇天

 今回のシュトックハウゼン講習会では、27年かけて完成させた7つのオペラからなる超大作「LICHT 光」(1977-2004)につづく新しい連作「KLANG 音」(2004-)からの作品がまとめて紹介された事が大きな特徴でした。「KLANG」は1日の24時間を24の音楽作品で表現しようとするプロジェクトですが、今回は現時点で完成している「1時間目」から「4時間目」までが演奏されました。

 KLANGの冒頭を飾る「1時間目」(2004/05)は(パイプ)オルガンに二人の歌手(ソプラノ、テノール)が加わる40分近くの作品ですが、初演は昨年5月ミラノの大聖堂で行われました。昇天祭の時期に合わせて初演が行われた事もあり、作品のタイトルは「HIMMELFAHRT 昇天」と名付けられ非常にキリスト教的な色彩の強いものとなりました。

 シュトックハウゼンは当初この作品において、作品の構造と密接に関連した24種類のパイプ・オルガンの音色を構想しましたが、リハーサル時間の不足など様々な現実的な制約のため初演の演奏に満足できず、オルガン・パートをシンセサイザーに置き換えた、今回世界初演された新しい版が作られた訳です。

 オルガンによる世界初演のヴィデオ映像をコンポジション・セミナーで見る事ができましたが、ミラノの大聖堂の異常に長い残響時間も相まってオルガンの演奏は非常に不明瞭な仕上がりにとどまっていたことが良く理解できました。但し、理想的なオルガンの機構、理想的な演奏の組み合わせが実現すればパイプ・オルガンによって真に理想的な作品の姿が現れるであろう事も想像できました。
3人の演奏者は聴衆から見えない場所で演奏しますが、聴衆の前方に用意された巨大なスクリーンにオルガニストの手と鍵盤が映し出されます。歌手の姿はこのスクリーンにも映し出される事はないのですが、そのために却って二人の声が天からの歌声のように感じられる神秘的な効果を生み出していました。

 今回の講習会でのシンセ版の演奏ではそのような視覚的効果は省略してステージ上に3人の演奏者が並んでの演奏となりました。シンセを黒い布で包んで配線などが目立たないようにしたり二人の歌手が「LITANEI 97」での合唱団員の衣装を着たりなどの若干の演出はありましたが、それ以外の演劇的な演出などは一切ありませんでした。

 (どんな突飛な発想が含まれているとしても)オペラとして構想された「LICHT=光」は目に見える世界を描いたのに対し、「KLANG=音」では目ではなく耳で捉えられる不可視な世界を描こうとする両者のコンセプトの違いから、今回演奏された「KLANG」からの作品のほとんどは視覚的、演劇的要素を欠いた、まさに「音」に集中した作品に仕上がっていました。

 さて、このシンセ版による「1時間目:昇天」ですが、何と言っても40分近く弾き続けるシンセ・パートの右手と左手のテンポがほぼすべての部分で異なっているという「ポリ・テンポ」が大きな特徴といえるでしょう。ただ両手のテンポが異なっているだけでなく、それぞれの声部で独自に自由な長さの休止、フェルマータ、声部ごとに独立したリタルダンド、アッチェレランドが指定されているために状況はさらに複雑になっています。
ミラノでの初演のためにオファーをしたケルン近郊の複数のオルガニストからはこの至難な演奏条件を理由に演奏をことごとく断られたのですが、今回シンセ版を初演したアントニオも準備に3ヶ月かかったと話していました。まず片手で指定されたテンポで完璧に弾けるようにして、その上で異なるテンポによる別の手の声部を組み合わせる、という地道かつ忍耐強い練習が繰り返された、ということですが、その傑出した演奏にはシュトックハウゼンも称賛を惜しまずにはいられませんでした。

 当初予定されていた1回の本番に加えて急遽2度の本番をコンポジション・セミナーの中で追加して行い、私たちにとっても聴取に努力の必要なこの複雑な作品を繰り返し聴くよい機会になりました。
二人の歌手の歌うパートやシンセ奏者が時々演奏するリンなどの打楽器はあくまでも補助的な役割に過ぎず、作品の本質的な部分は両手で異なるテンポで奏でられる2声のメロディーのみなのですが、非常に巧みに作曲されているために音の薄さのようなものは全く感じられず、むしろ、音数が多すぎて音楽についていくのが困難に感じられるほどの音楽の密度があります。

 受講生のためにこの作品の自筆譜のコピーが安価で販売されていましたが(正規の出版譜はまだ準備中)、それを見ながらでも両手の声部を追っていくのは楽ではありませんでした。コンポジション・セミナーの中で片手ずつ演奏して両声部を把握した後に2つの声部を組み合わせて演奏する、といったこともやりましたが、そうした作業をしてようやくポリ・テンポの構造をしっかり捉えることができました。

 私を含めた多くの受講生の関心事はこの新しい連作「KLANG」がどのような作曲技法を用いて作られているのか、ということでした。「LICHT」のスーパー・フォーミュラのようなものがここでも使われているのか、それとも全く異なる原理で構成されているのか?
シュトックハウゼンは80歳近い高齢になっても常に新しい事へチャレンジする精神を忘れません。「LICHT」はオペラ劇場で演奏するという前提があった、作品全体の設計図でもあるスーパー・フォーミュラを作曲の出発点とした事などで、たくさんの制約があった(もちろんその「制約」の中から最大限の多様性を得るところが魅力でもあったのですが)のに対して、「KLANG」ではオペラという作曲の前提もないし、スーパー・フォーミュラのような設計図も敢えて設定しない事によって完全に自由な状態で作曲したい、というようなことを話していました。
もっとも「1時間目」で使用された24音のセリーやリズム・パターンが他の作品でも流用されたり、それぞれの作品が24の小部分に分かれたり、という「ゆるい」統一性は考慮されていますが、それも今後の作品で変化していく可能性も十分にあります。

 前述のとおり「1時間目」では2オクターブの24音から構成されたセリーが作曲の基礎になっています。ポイントは「マントラ」から「光」までの作品の基礎をなしていたフォーミュラはもはや使われていない、ということです。コンポジション・セミナーのテキスト(シュトックハウゼン出版社より購入可能です)には、シュトックハウゼンはフォーミュラの諸要素よりも(モメント形式の)モメントを再び強く意識するようになり、その両者を組み合わせていくのが良いだろう、と書いています(フォーミュラを使用していないといっても「マントラ」以降、重要視されてきたメロディーの役割が否定された、という訳ではなく、むしろ依然としてメロディーを重要視しています)。

 レクチャーで話していた事も総合すると、フォーミュラやモメントによる作曲法だけでなくそれ以外の自分の試みたあらゆる作曲法を総合していこうとする意図を持っているようです。既に「LICHT」において、自分のそれまでの作曲活動の集大成をしたい、という意図を持っていた訳でその目的も達成できたと私は考えますが、「LICHT」の長い作曲期間で様々な作曲家としての進展がありましたし、今のシュトックハウゼンの目から見ると、フォーミュラによる作曲法の枠組みにとらわれていたし、オペラというジャンル上の制約があって真に自由な作曲ができなかったと見ているようです。

 さて、この24音のセリーは以下のようになっています。

klang

 第3音から第4音の短6度上行など、メロディー・ラインで「昇天」を表現しようとしている事がすぐ分かりますが、24音のセリーを6音ずつのグループに分けると2つ目以降のグループが最初のグループを逆行、オクターヴ置換、移高の処理を施したもので、耳で聴き取りやすく覚えやすいように考えられています。

 この作品全体のメロディー・ライン(厳密に言えばピッチ構造)はこのセリーをもとにして作り出されるのですが、セリーの各音を1, 2, 3, … ,22, 23, 24とすると、1, 1-2, 1-2-3, 1-2-3-4というように一音ずつ音が増えていくようにメロディー・ラインを構成する、という驚く程単純な方法を採用しています。但し、それぞれのセリーに基づいたメロディーの間に8種類の自由な挿入句(長さは自由)が常に挟まれることによりメロディーの構造は一気に複雑になります。この挿入句はリンなどの補助打楽器の演奏、休止、クラスター、グリッサンド風の走句、歌手によるイヴェント、でピッチはこのセリーと関係している場合もあれば、全く関係ない場合もあります。

 この挿入句を挟んだセリーの増大過程が終わり24音のセリーが完成すると、今度は、1-2-3-…-23-24, 2-3-4-…23-24, 3-4-5-…23-24などとセリーの頭から順次、音を除去していくプロセスに移り最後に第24音目のみが残るまで続きますが(これ以降も同様に挿入句を挟みます)、ここプロセスにおいては第24音に一定の規則に従って音を加えて、2声の和音を構成します。その次はこのセリーの鏡像形による増大と減少のプロセスが同様に行われ、最後にセリーの逆行形が増大していくプロセスが行われます。

 驚く事に、これが約40分の作品の(オルガンの右手の)メロディー・ラインのすべてです。まず右手の(リズムも含む)メロディーのすべてが作曲され、左手のメロディーは右手のメロディーをいわば切り張りのように移植して作られます(当然その過程でオリジナルからかなりの変形を加えます)。セリーも前述の通り非常に覚えやすいので、集中して聴けばこの過程を耳で追っていく事が出来ます(セリーが10音以上になってくると聴取は非常に困難になってはきますが不可能ではありません)。

 このメロディー(現時点では音高のみ)にリズムが組み合わされますが、この方法が非常に独特です。全曲のリズム構造を12の部分に分け、それぞれの部分を独自の「リズム・ファミリー」と呼ばれるリズム群を使用して、前述のピッチ構造に当てはめていきます。
それぞれのリズム・ファミリーは付点全音符(=16分音符×24)12個分の持続を持ち、その持続をあるシステマティックな方法(詳しくはテキストをご覧下さい)を用いて複雑な12のリズムパターンへと分割し、そこにある特定の音価から構成された8つのリズム群を挿入します(それぞれの挿入句全体の持続は16分音符24個分)。例えばリズム・ファミリー1では16分音符(リタルダンドなどのテンポ変化を伴います)、リズム・ファミリー3では付点8分音符、リズム・ファミリー12では付点2分音符を使って作られます。従ってリズム・ファミリーの違いによってリズムの密度が異なることになります。
こうしてできたリズム・ファミリーを2-12-3-11-4-10-5-9-6-8-7-1と構成しますが(だんだんリズムのコントラストが少なくなり最後に一気に細かいリズムへ変化する)、これが作品全体のリズム構造そのものになります(但し、メロディーの挿入句の音価はこのリズム構造外)。

 これでピッチとリズムが揃ったのでそれを機械的に組み合わせて作品全体の右手のメロディーが完成しますが、その過程で演奏のしやすさ、様々な音楽的な理由でこの厳密なシステムから意図的に逸脱する場面が数多く見られるのも非常に興味深いところです(これらの過程をテキストに掲載された膨大なスケッチや完成したスコアなどを対照する事で詳細に確認する事が出来ます)。

 この作品全体は24の小部分から構成され、それぞれの部分は固有のテンポと音色を持っています。24の小部分は24の異なるテンポを持っていますが、それは前述の24音のピッチのセリーから導き出されます。ピッチのセリーを形成する2オクターヴの24の半音(c1 – h2)を、2オクターヴのテンポの半音階による24のテンポ(40-150)に対応させ、24のテンポのセリー(「テンポ・メロディー」とシュトックハウゼンは呼んでいます)を作り、これを作品全体のテンポの構成とした訳です。
このテンポのセリーの前半は以下の通りです(ピッチのセリーと比較してみて下さい)。

 50.5 – 40 – 53.5 – 90 – 85 – 95 – 134 – 120 – 127 – 75 – 56.5 -71 – etc.

 左手のテンポのセリーはこのセリーの順番をある簡単な方法で置換することにより生成しますが、そのセリーの前半は以下の通りになります。

 45 – 75 – 107 – 80 – 120 – 101 – 134 – 142 – 95 – 113 – 85 – etc.

 これを見てすぐ分かるとおり、ほとんどの場面で左手と右手のテンポが異なる事になります。ちなみにテンポの変わる場所もほとんどの場所でそれぞれずれています。

 前述のリズム・ファミリー(中編参照下さい)とテンポのセリーは以下のような関わりを持っています。
例えば、(右手の)始めに現れるリズム・ファミリー2はテンポ50.5、40を持ちます。リズム・ファミリーはさらに12の小部分に分けられるのでその7つ目の部分からテンポ40になる仕組みになっています(ただしこの変化のポイントは状況によって柔軟に変わりますが、ともかく各リズム・ファミリーのほぼ中間地点で変わるということです)。2番目に現れるリズム・ファミリー12は同様にテンポ53.5、90を持ち、以下同様に続いていきます。

 こうしたテンポやリズムのキャラクターの変化とピッチのセリーの増大及び減少過程は独立して行われ両者のタイミングは一致しないので、理論的な構造は比較的シンプルでもそれを耳で追っていくのは非常に困難となります。しかし、注意深く聴けばその構造を聴き取れるので、作品に馴染んでくるとどんどん旨味が増してくる楽しみがあります。

 作品のピッチ構造、リズム(及びテンポ)構造は以上のような方法ですべて作曲されましたが、音量、音色の構成は非常にオルガン的な発想で計画されました。

 この作品は24の部分に分かれ、それぞれの場面が(テンポのセリーに従って)固有のテンポを持つ事だけでなく、それぞれのテンポと音色(オルガン・ストップ)が対応するようになっています。音量はこの音色の特性によって副次的に決められる事になります(両手のテンポは基本的に異なっているので両手の音色、音量も同様に異なっている事になります)。
テンポが遅くなると複雑で倍音成分が多く、テンポが速くなると透明度の高くなるようにストップ(シンセ版であれば音色のプログラミング)を調節するように求められていますので、演奏者はあらかじめ上記の原則に従った「24の音色のスケール」を準備する必要がありますが、この段階で非常に困難な作業である事が予想されます。特にシンセサイザーに於いてはこのように24の音色を作ったとしても音域によって聴覚上のキャラクターが極端に異なってしまうため、ある1つのテンポに対応する音色を右手用、左手用それぞれ作り、しかもそれが聴覚上は同一の音色であるかのように調節する必要があります。従って実質的には少なくとも48の音色をプログラミングする必要がある、ということになります。

 さらに、これらの両手の音色に、作品の構造に従って、特定の音程を音色の一要素として加えなくてはなりません。この切り替えはリズム・ファミリーの変わる12部分で行われ、それぞれの音程関係は以下の通りになります。

 長10度下 – 長7度下 – 長9度下 – 短10度下 – 短9度下 – 完全5度下 –
長6度下 – 短6度下 – 完全4度下 – 短7度下 – 減5度下 – 完全8度下

 この音程関係はピッチのセリーから導き出されます。このセリーの冒頭のeと、続くc-f-d-cis-dis-a-g-gis-h-fis-aisとのそれぞれの音程(オクターヴ関係は適宜調節)が上記の音程になっている事が分かるかと思います。この方式で行くと最後の音程関係はeとdisによる短9度になるはずですが、すでにこの音程関係が現れていることと作品の最後という特別な場所であることを考慮して完全8度下が加えられる措置がとられています。

 このように、音色に関しても綿密に計画したことが、たった2声の音楽でも非常に豊かな響きを持ち、音色の多彩さがそれ自体の効果だけでなく作品構造をクリアーに浮かび上がらせる事にも繋がっています。
こうしたシンセサイザーの複雑なプログラミングによって具体的にどのような音色になるのかを、ひとつひとつアントニオの実演で聴く事もできましたが、当然ながらそれは、演奏者と作曲者のコラボレーションが極めて重要であるということを再認識させました。
初演のオルガンによる演奏と比べて、2つのテンポを弾き分ける、という演奏技術の違いだけでなく、音色の構成がうまくいくかによって、作品に対する印象がいかに極端に変わってしまうか、というのを示す好例であったとも言えます。

 コンポジション・セミナーの毎日の講義のあとには、恒例の質問タイムが設けられました。
ほとんどの質問は相変わらず下らないものでしたが、ある受講生からの、リズム・ファミリーの構成の仕方がメシアンの作曲法を思わせる、といった感想に対してのシュトックハウゼンの回答は興味深いものでした。以下、不正確な記憶に基づくシュトックハウゼンの回答の要約です。

「私は若き日にメシアンの門下生として勉強し、彼の作曲した『音価と強度のモード』などからリズムの新しいコンセプトを学び、インド音楽のリズムについても勉強した。メシアンのクラスでは沢山のモーツァルトの作品の分析を行ったが、モーツァルトはある種のリズムのカデンツを(おそらく無意識に)使っている事を発見した(この論文はTEXTE第2巻に収録されています)。和声構造、和声進行などが様々な研究者などによって多く分析、研究されているのに対して、リズム構造に対しては必ずしもそうではないし、多くの作曲者の間でも同様である。」

 シュトックハウゼンが規則的なリズム・パターンの繰り返しを嫌うのは良く知られていますが、この回答の最後に突然テーブルを「タ、タ、タ、ターン」とかなり強く叩き(某有名作曲家の交響曲の冒頭のリズム)、「This is stupid!!」と発言したのは可笑しかったです。

 別の受講生は「あなたは作曲においてどういうモデル(作曲方法の雛形、という意味だと思われます)を使っているか?」というどうしようもない質問をしたのですが、シュトックハウゼンは、「そのようなモデルは作品ごとに新しく作っていくべきものである」という至極もっともな回答をしました。回答自体は予想のつくものでしたが、シュトックハウゼンの口からそうした発言がされると非常に説得力があります。

 同じような流れで、ジョン・ケージ、スティーヴ・ライヒ、ラ・モンテ・ヤングなど具体的な作曲家の名前を挙げてこれらの作曲家に対してどう思うか、という問いに対し、「例えばラ・モンテ・ヤングはダルムシュタットで教えた事がある。彼はオリジナルだ。オリジナルな音楽概念を打ち立てる人は素晴らしい作曲家だと思う。ただし、それは(質問で名前を挙げられた作曲家の)全員(あるいは全作品)ではないけど。」「ペンデレツキはそれほどオリジナルとは思わない。」などと答えましたが、20世紀後半からの前衛音楽界の中心を走り抜けたシュトックハウゼンは今や「生きる現代音楽史」であると言える訳で、(質問の価値の有無は別として)そのような質問をしてみたくなる気持ちも分かりますし、彼の口から、ラ・モンテ・ヤングとかメシアンといった名前を聞くことには、やはり私たちを興奮させるものがあります。


KLANG2時間目:喜び

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 二人の歌手を伴ったオルガン(またはシンセ)のための大作である1時間目「昇天 HIMMELFAHRT」に続く、KLANGの「2時間目」の作品は二人のハーピストのための「喜び FREUDE」です。この作品も「昇天」と同様にミラノの大聖堂で演奏されるために委嘱を受けたものです。
50年前、若きシュトックハウゼンの電子音楽の新作「少年の歌」をケルンの大聖堂で演奏をしようと試みるも、スピーカーを(神聖な)教会の中に置く事はできない、という理由で教会側から演奏を拒否されましたが、いまや逆に、教会からシュトックハウゼンに作品を次々と委嘱するまでに時代が変化してきた事には感慨深いものがあります。

 この作品はペンテコステ(聖霊降臨祭)に初演されましたが、それにちなんで「Veni, Creator Spiritus」の24行の詩が二人のハーピストによって歌われます。そしてこの24行の詩がこの作品の24のモメントに対応するように作曲されますが、当然ながらKLANGの連作が全体が1日の24時間を音楽的に表現する事と関係があります(1時間目「昇天」では全体が24のテンポの半音階のセリーを成すような24の小部分に分かれていました)。
音楽素材としては「昇天」で使われた24音のピッチのセリーやリズム・ファミリーが流用されていますが(例えば作品の始めに歌われる「Veni Creator」と歌う箇所にはこのセリーの冒頭6音の移高形が使用されています)、「昇天」とは全く違った方法でこれらの音楽素材が展開されているように聞こえました(楽譜を見ていないので詳細不明)。

 シュトックハウゼンのハープのための作品は、前例がないため、どういう響きがするのか全く想像がつきませんでしたが、いかにもハープらしい響きがする、というのが第一印象でした。
当然のように思われるこのことは多くの現代作曲家に忘れ去られています。楽器の様々な音色の可能性を発見して特殊奏法として採用していく事は、シュトックハウゼンを含む多くの作曲家によって数多く行われています。しかし、その実験精神ばかりが独り歩きして、その楽器本来の持ち味を生かす、という側面が多くの作曲家にとって忘れ去られている思うのです。例えば、オーケストラの作品を書くのに電子音楽のような音響を試みるよりはオーケストラらしく響く作品を作るべきであるし(電子音楽的な音響が必要であるのなら、電子音楽を作曲した方が簡単で機能的でしょう)、電子音楽を製作するのに、そこでオーケストラの音色を模倣するのは馬鹿げている、という主旨の文章をシュトックハウゼンは書いていたことを思い出しました(そうした観点から見ると、「昇天」は実にオルガン的であるといえます。シンセで演奏しても、ものすごく機能の進化したオルガンの演奏を聴いているような気持ちになります)。

 いくつかの特殊奏法も使っていますし、声とハープの音色の重なり合いも美しい効果を上げていますが、ハープ特有の音色や音響がこれほどまでに効果的に生かされ、且つシュトックハウゼンの音楽として成り立っている、ということは私にとって非常に驚くべき事でした。
色彩感豊かなトレモロやアルペッジョの多彩で美しい効果は、シュトックハウゼンがハープという楽器の機能を知り尽くしていることを伺わせますし、複数の弦を平手で叩くなど、様々な方法で弦を鳴らす特殊奏法も面白い効果を上げていました。一度弦を鳴らしたら基本的に音高の変えられないハープのサウンドに声のグリッサンドを組み合わせたり、Sなどの子音を弾き延ばしたノイズ的サウンドを付加したり、というシュトックハウゼンお得意の手法も数多く見られ、フォルテで演奏された和音の減衰音のみを聞くような楽想(ミラノの大聖堂の長い残響時間を考慮したのでしょう)は遠い過去の作品「ルフラン」すら思い起こさせますが、そうした抽象的な要素と、メロディックなフレーズ、調性感すら感じさせる柔らかい響きの和音などが違和感なく結びついているところも興味深いです。
もっとも印象的だったのが、グリッサンドの使い方です。このハープのグリッサンドは美しく神秘的な響きを持っていますが、ムード・ミュージックなどで濫用されたために、使いすぎると陳腐でありきたりな印象すら起こさせかねない諸刃の剣と言えます。シュトックハウゼンはこの作品で、その「危険な」グリッサンドを本当に到るところで使っていますが、陳腐な効果に陥るどころか白昼夢を思わせるような夢幻的な世界を描き出していました。

 演奏した二人(一人はカティンカの姪)の白い衣装やボーイ・ソプラノを思わせるような純粋な声も相まって、二人の天使が歌いながらハープを演奏しているかのようなステージでしたが、40分という長い演奏時間にも関わらず、そうしたキャッチーな演出と比較的親しみやすい曲想は聴衆の大絶賛を引き出しました。
シュトックハウゼンも作曲、演奏ともに非常に気に入っているようでしたが、あまりにも入れ込みすぎていたせいか、この作品のゲネプロではサウンド・プロジェクションに関してちょっとしたことで周りのスタッフに強い苛立ちをぶつける異例の機嫌の悪さを見せていました。この聴衆の大喝采も、シュトックハウゼンのなりふり構わぬ努力の甲斐あってのことなのでしょう。


KLANG3時間目:自然の持続時間

 KLANG3時間目は「自然の持続時間 NATÜRLICHE DAUERN」という奇妙なタイトルのついたピアノのための作品です。KLANGは1日の24時間に対応する24の作品から構成される計画ですが、この「自然の持続時間」はそれ自体が24の作品から構成されています。今回はその内の1曲目から15曲目のみが初演されましたが(残る9曲は2007年7月リスボンで初演予定)、この15曲のみで約100分を要する大作となっています。

 シュトックハウゼンは1950年代より「ピアノ曲 KLAVIERSTÜCK」というタイトルのついたピアノのための作品をこれまで19曲発表(19曲目は未初演)していますが、12〜14作目では種々の内部奏法やピアニストの声なども用いてピアノの音色の領域を拡大し、15作目以降ではKLAVIERを「ピアノ」ではなく「鍵盤楽器」という風に読み替える事によってシンセサイザー(=音色を自在に変えられるピアノの進化形)で演奏する事を前提に作曲しています。「ピアノ曲XI」(1956)と「ピアノ曲XII」(1979/83)の間に作曲された2台ピアノのための「マントラ MANTRA」(1970)においてもピアノの音色にリング変調を施したり、補助的な打楽器などを使う事によってピアノの音色を拡大する試みを行っていた事も考えると、「モノクローム」の音色しか持たない(アコースティック・)ピアノから、「カラフル」な音色を持つシンセサイザーへ移行していったのはシュトックハウゼンの中では自然な流れだったはずですし、そうしたことから、多くの聴衆がシュトックハウゼンは今後アコースティック・ピアノを作曲する事はないだろうと予測していたところに、アコースティック・ピアノのための作品が突如24曲完成したことは大きな驚きでした。
「ピアノ曲」のシリーズは当初21曲の連作として計画されていましたが、第1作目(1952)から半世紀を経てようやく18曲目(2004)までが初演された(しかも12作目以降は作風が大きく変わっています)という紆余曲折と、今回の24作品はわずか1年の間に作曲されたという速筆振りのギャップの大きさも尋常ではありません。

[参考]シュトックハウゼンの鍵盤楽器作品のリスト

KLAVIERSTÜCK I-IV(1952) ピアノ
KLAVIERSTÜCK V-X(1954-55, IXとXは1961年に完成) ピアノ
KLAVIERSTÜCK XI(1956) ピアノ

INTERVALL(1969) 4手ピアノ(直観音楽「来たるべき時のために」より)
MANTRA(1970) リング変調された2台ピアノ+補助的な打楽器

KLAVIERSTÜCK XII(1979/83) ピアノ
KLAVIERSTÜCK XIII(1981) ピアノ
KLAVIERSTÜCK XIV(1984) ピアノ

SYNTHI-FOU (KLAVIERSTÜCK XV)(1991) シンセサイザー、電子音楽
KLAVIERSTÜCK XVI(1995) 電子音楽、ピアノ、シンセサイザー
KOMET als KLAVIERSTÜCK XVII(1994/99) シンセサイザー、電子音楽
KLAVIERSTÜCK XVIII(2004) シンセサイザー
SONNTAGS-ABSCHIED als KLAVIERSTÜCK XIX(2001/03) シンセサイザー、電子音楽

NATÜRLICHE DAUERN 1–24(2005/06) ピアノ

 そして何よりも、この作品自体の作風が非常に異例なものでした。一聴してケージやフェルドマンを思わせるような瞑想的で静謐さに満ちた作風は、メロディーを作曲の基礎に置いた(=フォルメル技法)70年代以降の作品とは全く異なった響きを持っていて、60年代に突然舞い戻ったかのような錯覚すら覚えます。

 この作品の基本コンセプトはメトロノーム的拍節によらない新しいリズム法の追求です。ピアノで演奏される持続音の減衰時間は音域、音量、ペダルの状態で様々に変化しますが、そうした自然現象に基づいた時間をリズムの基礎に置こうというのがこの作品の狙いで、それが「自然の持続時間」というタイトルにも関連しています。この限定されたアイデアだけで24曲を作るというのは非常に厳しい要求のように思われますが、シュトックハウゼンはそこから多様な発想に基づいた作品を生み出しています。
以下はいくつかの作品の大まかな構成です。

 2曲目は、前打和音を伴った24音のピッチのセリー(1,2時間目で使用されたものと同一)が単音でペダルを踏みっぱなしの状態で順番に演奏されますが、これらの24のイヴェントの持続時間は音が減衰するまでの時間で決められます。前打和音とセリーの各音の間隔はごく短い1音目から徐々に開いていき(このタイミングは拍節的に記譜されています)24音目では5秒以上になり、この前打和音の音域は最高音域から最低音域へ、セリーの各音は最低音域から最高音域へ徐々に移行していきます。最後に、このイヴェントを圧縮するかのように、24の前打和音が徐々に音価を拡大しながら(拍節的に記譜されています)再度演奏されて作品が終わります。
1,3曲目も似たような発想で作曲されていて、特にこれらの冒頭3曲がケージ、あるいはフェルドマン的な雰囲気を持っています。

 5曲目は、24音のピッチのセリーがそれぞれのイヴェントで1-2-3, 2-3-4, 3-4-5といった感じで断片的なメロディーとして演奏されますが同時に弱音で演奏される低音域の和音の減衰を待って次のイヴェントへ進む仕掛けになっています。ちなみにこの作品は昨年来日した際、京都で作曲していますが、そのせいか非常に日本的な「間」の間隔やメロディーのオリエンタルな雰囲気が印象に残ります。

 6曲目は、ペダルを踏んだまま両手で(独立したタイミングで)繰り返し演奏されるメロディーが始めは速く、徐々にリタルダンドしていき中間部ではそのテンポがかなり遅くなり、再びアッチェレランドしていき始めのテンポに戻ったかと思うと、再度突如減速して終わる、という糸が絡み合ったりほどけたりというイメージを喚起させる曲です。

 10曲目では、最低音域で演奏される和音の減衰時間を基準として、最高音域でメロディーの断片が不規則なルバートや音量変化を伴って(このパターンは低音の和音のたびに変化します)繰り返し演奏されますが、右手の全ての指にインディアン・ベルが仕込まれているので演奏するたびにこれがシャラシャラと音を立ててピアノの高音域のメロディーに絶妙な彩りを加え、ルバートや音量に呼応してインディアン・ベルのリズム、音色が微妙に変化していく美しい作品です。

 12曲目では、24の和音が順番に演奏され、もう一度それを繰り返すだけ、という極めてシンプルな構造になっていますが、それぞれの和音の持続時間はピアニストの呼吸の長さで決定します(1つ目の和音で吐き、2つ目の和音で吸うetc.)。1度目はこの呼吸を静かに行う事が指定されているので非常に静的な音楽になりますが、2度目は呼吸の音が聴衆に聞こえるほど激しく行う事が要求されるので、音楽はハーハー言う音も相まって、非常にせわしないものになり、最後にピアニストが溜息をついて終わるギャグの寒さに聴衆は凍りつきます。ちなみにこの24の和音は音量の変化を伴って演奏されるので、それが呼吸の長さにも若干の影響を与え、持続時間にさらに微妙な不規則性が加わります。

 15曲目では、最低音域から高音域までゆっくりと不規則な音階が上昇していき(同時に24音のピッチのセリーの断片が聞こえます)、一定のところまで達するとグリッサンドなどで低音域にすばやく戻りテンポを不規則に変化させ再び上昇、といったプロセスを繰り返しますが、繰り返すたびにこの上昇する音塊が音数を増やし、グリッサンドを伴うクラスターにまで成長していきます。それと同時にはじめは1音ずつ点描的に演奏されていたセリーの「オブリガート」はだんだんメロディックになっていきます。最後にはこの音の階段は最高音域に達し、それでも飽き足らずにピアニストは立ち上がり、最高音域の弦を引っ掻いて作品は終わります。

 その他、いくつかの作品では「昇天」で採用されていた、両手で異なるテンポで演奏するテクニックも使われています。
ピアニストが声を発したり、前述のインディアン・ベルなど若干の例外はあるものの、特殊奏法の類を敢えて使わず、ピアノのモノクロームな音色のみに集中し、音数を絞った極めてシンプルな作りに徹しているところに、シュトックハウゼンの自信を伺うことができます。

 今回この作品はピアノ・クラスの講師である二人のピアニストBenjamin KoblerとFrank Gutschmidtによって演奏されました。1曲または数曲ごとに交替で演奏するスタイルで、演奏をしないピアニストは舞台下手に用意された椅子に座って待つのですが、「間」の多いこの作品とその演奏スタイルの組み合わせが奇しくも将棋や囲碁の対局を思わせるような結果になっていたのが妙に可笑しかったです。


KLANG4時間目:天国への扉

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 KLANG4時間目は「天国への扉 HIMMELS-TÜR」という意味あり気なタイトルのついた作品ですが、ほとんどの場面で打楽器奏者がドアを木のバチで叩き続けるだけという極めて異色な作品になっています。

 この作品のために特別にあしらえられた観音開きのドアは、左右それぞれ縦方向に6層に分かれ、それぞれ異なる木の素材で出来ているので、叩く場所を上下変化させることによって6種類の音色が生じる事になります。普通に叩くだけでなく、ばちでドアを擦るなどのヴァリエーションもありますし、打楽器奏者の足音によるリズムも加えられるので(床にも板が敷いてあります)、非常に限定された音色のパレットの中で音色やピッチの細かい変化がつくように考えられています。
始めは断片的に演奏されるリズムが、徐々に細かく複雑なものへと発展していく構成になっていますが、ドアを叩くと同時に足音も鳴らすために視覚的な面白さもあります。ドアの低い部分を叩くために寝転がったり、両手を上に上げたまま足踏みをしながらその場で一回転したりなどユーモラスな要素もあります。
演劇的な要素も強いこの作品ですが、極めて限定された音素材(ドア)の様々な音色の可能性を実験するように演奏する様は、1つのドラの音色の可能性を究め尽くそうとする「ミクロフォニーI」を思い起こさせます。ミクロフォニーIでは多様な方法で演奏されるドラの音をフィルターなどで電気的に変形させますが、この「天国への扉」では電子変調の類は一切なく(シュトックハウゼン作品の演奏で通常行われるマイクによる増幅すら行われません)「ミクロフォニー・アコースティック版」とでも喩えたい気分になります。

 ドアを叩くリズムが最高潮に複雑になった時に突然、ドアが音もなく開きます。ドアの奥には何も見えません。打楽器奏者はゆっくりとドアの向こう側へ歩いていき(この時の足音も音楽的に作曲されています)、姿が見えなくなってしばらくすると、突然舞台裏からドラやシンバルなどによる大音響のリズムが鳴り始まります(木の音色から金属の音色への移行)。さらにサイレンの音がそこに加わり(こうした音色の組み合わせはヴァレーズ作品の音響を強く意識させます)、客席に座っていた少女(4〜6歳位)がそこから歩き始めステージへ上ります。開いたままになっているドアまで進みドアの向こうの様子を訝しげに窺いますが、そのままドアの向こうへと消えていきます。この間ずっと鳴っていた打楽器とサイレンの音はだんだん弱くなり、そのままフェード・アウトしてこの作品は終わります。
タイトルから想像できるとおり「天国への扉」の向こう側は「死」を暗示するのですが、少女が感情を表に表す事なくそのドアの向こうへと行ってしまう様子は非常に詩的で感動的でした。

 私はシュトックハウゼンへのおみやげとして、「世界のドア」「世界の窓」という2冊の写真集を持っていきました(この写真集は先日触れたものです)。「世界のドア」はもちろんこの「天国への扉」を意識して選んだのですが、たまたま同じ写真家による「世界の窓」が隣においてあってこちらも非常に美しい本だったのでついでにと思って持って行ったら、これが思わぬ結果を生みました。
これらの本は「天国への扉」の演奏されたコンサートの終演後に渡したのですが、「ドア本」を渡すや否や、シュトックハウゼンはいたく感動した様子で本の何ページかの写真に見入っていました。さらに「窓本」を渡すとシュトックハウゼンはさらに驚愕した様子を見せました。「私が『窓』を題材にした作品を作曲していることは話していなかったと思うのだが?!」
もちろんこれは偶然なのですが「楽園の窓」という名前の作品を作曲している、ということ、さらに「天国への階段」という作品も計画(これには女性のspecial singerが必要だと話していました)していることを教えてもらいました。
半分冗談で「きっと階段の写真集が必要だろう。」と話していましたが、これは、と心当たりがある人はシュトックハウゼンに送ってあげると喜んでもらえるのではないでしょうか?
これらの作品は当然KLANGに組み込まれると思われますが、その他「和音」をテーマにした作品、カティンカやスージーのための作品なども予定されているようです。

 ちなみにこの2冊の本が気に入ったシュトックハウゼンは、その本にサインしてくれ、と私に頼みました。あまりの意外な展開に一瞬意味が分からなかったのですが、「私の」サインをその本に書いてくれ、ということでした。「書く場所がないからここに座りなさい」と例の巨大なミキサーの御大の席に座らされペンもシュトックハウゼンから借り(「シュトックハウゼンの」サインを求める受講生を待たせて)シュトックハウゼンのためにサインを書く私の姿は奇妙なものだったに違いありません。