Hoch-Zeiten ドイツ初演レポート

2003年2月14日ケルンのフィルハーモニーで行われたシュトックハウゼンの新作「Hoch-Zeiten」のドイツ初演を聴きに行きました。この作品の世界初演はこの演奏の半月前ほどにスペインで行われたばかりでしたから、今回の演奏は限りなく世界初演に近いといってもいいでしょう。実際、演奏者もその時と全く同じケルン放送交響楽団とケルン放送合唱団でした。

私はただこの演奏会を聴くためだけにドイツへ行きました。演奏会の前夜にケルンへ到着し、演奏会の翌朝にはケルン空港を発つという強行スケジュールです。なぜ、そこまでしてこの作品を聴きに行ったのか?それは、この作品はシュトックハウゼンにとって極めて特別な作品であるからです。
シュトックハウゼンは今から25年以上前の1977年から大作オペラ「光」を現在に至るまで作曲し続けています。この作品は「月曜日」「火曜日」「水曜日」「木曜日」「金曜日」「土曜日」「日曜日」という7つのオペラから構成されていて、現時点で「日曜日」を除くすべての作品が完成しています。現在作曲中の「日曜日」は5つの場面から構成される予定になっていて、第一場「 Lichter-Wasser (光ー水)」、第2場「 Engel-Prozessionen(天使ー行進)」がすでに初演されていますが、今回初演された「 Hoch-Zeiten (至高ー時 ちなみに Hochzeiten と一語になると「結婚[複数形]」と言う意味です)」はこのオペラの最終場面、つまり巨大な連作オペラである「光」全体の最終場面になります。
まだ残る2つの場面は初演されていませんが(そのうちの一つの Düfte-Zeichen [匂いー徴] は今年の夏ザルツブルクで初演される予定です)、この巨大な作品の最後を飾る作品をシュトックハウゼンが何の思い入れもなく作曲する筈がありません。そして、実際そうでした。

「光」の作曲に費やした20年以上の歳月の間に、すでに巨匠の域に達していたシュトックハウゼンの作曲技法はさらに洗練の度合いを増し、特に1990年代後半以降に作曲された「水曜日」「日曜日」における極度に複雑で緻密な響きを持つ作品群の完成度は西洋音楽の歴史全体の中でも間違いなくトップクラスに位置します。(そして聴衆に対しても全く妥協がないので、本当の素晴らしさを理解するまでには繰り返し集中しての聴取が必須です)。「 Hoch-Zeiten 」もこうした傾向の延長線上にありますが、音楽構造の極端な複雑さと響きの美しさはそれらをも軽く上回ってしまう素晴らしさでした。

シュトックハウゼン・ファミリーの好意により演奏会当日のゲネプロを見学させてもらう許可を取っておいたので、ゲネプロ開始時刻の午前10時前にケルン・フィルハーモニーに客席に行くと、すでにシュトックハウゼンが客席中央のミキサー席で様々なチェックを行っています。もちろんカティンカやスージーなどのおなじみの面々もシュトックハウゼンの周りで色々な作業を行っています。私と同じようにゲネプロの見学にきていたシュトックハウゼン講習会で知りあった友人達も何人かいましたが、一様に私がこれだけのために日本からわざわざやって来た事に驚いていました。しかし、たった一人だけ全く驚かなかった人がいました。それはシュトックハウゼン本人です。タイミングを見計らってシュトックハウゼンに声を掛けると「調子はどう?」という感じで私がここにいるのがさも当たり前、という感じで全く普通に話してきたので、私が逆にびっくりしてしまいました。
本番でシンセサイザーを演奏するアントニオとゲネプロ開始前に少し話をすることができたのですが、2冊に別れた巨大で分厚い複雑極まりないスコアを見せてもらいながら、簡単な作品の説明をきくことができました。

それでは、この作品の概要を紹介しましょう。
Lichter-Wasser, Engels-Prozessionen, Licht-Bilder, Düfte-Zeichen, Hoch-Zeiten というように「日曜日」の各場面のタイトルはすべて単語のペアになっています。それは「日曜日」が「ミヒャエルとエーファの神秘の結婚の日」という位置づけになっている事に由来しています。
そしてHoch-Zeitenはタイトルだけでなく演奏形態にもこのペアの概念が適応されています。この約30分の作品は2つの離れた別々のホールで同時に演奏されます。一つのホールではオーケストラ奏者が演奏し、もう一つのホールでは合唱団員が演奏します。一度この作品が演奏されたあと休憩があり、この間に双方の演奏者がホールを交代します。そしてもう一度同じ作品が演奏される、という仕組みになっています。
それぞれのホールのステージ上方には5つのスピーカーがつり下げられています。このスピーカーから、楽譜で指定された特定の箇所で、もう一方のホールからの音楽がフェイド・インして再生されます。この時だけ双方の演奏が同時に聞こえる事になります。したがって、休憩を挟んで聴く2つのヴァージョンでは同じ音楽構造を持ちながらも全く違った音響を聞く事になります。
こうしたコンセプトを実現させるためには2つのホールでの演奏のタイミングが同期している必要があるのですが、これは無線システムを使って一方から他方のホールにクリック音を送信する事によって実現されています。このクリック音はそれぞれのホールのミキサーからステージ上、及び客席の指揮者のイアフォンへ送信され、それぞれの指揮者はこのクリック音に従ってテンポを演奏者に伝えます。
この作品の外見上のもっとも特異な特徴は、全体で12人の指揮者を必要とするということです。
これはそれぞれのホールの演奏者はさらに5つの小グループに分かれ、それぞれのグループは異なったテンポで同時に演奏する事に起因します。つまりこの5つの小グループはそれぞれの指揮者を必要として、その指揮者のテンポに合わせて演奏するということですが、5人の指揮者が同時にバラバラのテンポで指揮をするヴィジュアル的なインパクトは(こうした効果はあくまでも副産物に過ぎないにも関わらず)ものすごいものがあります。音楽の複雑さが視覚的にも表現されていますし、もちろんそれは聴覚からのみでもはっきりと知覚できます。そしてそうした複雑さが、複雑さそのものを狙った空虚なものでなく非常に緻密で美しい音響を生み出すためのものであることは言うまでもありません。

私が演奏を聴いたケルン・フィルハーモニーの方ではまずオーケストラ・グループが演奏しました。
この複雑な音響構造を鮮明に聞かせるために約30人からなるオーケストラ奏者のすべての席にマイクがセットされていますが、非常に細かいオーケストレーション、細部のバランスまで気を遣った入念なリハーサルの効果があり信じがたいほど繊細で複雑な音楽がホールに鳴り響きます。
オーケストラ・グループの音楽には7つのデュエットが挿入されます。これはオーケストラのメンバー二人が突然立ち上がってステージ前方のマイクの近くに移動してデュオを演奏する仕掛けになっているのですが(奏者の組み合わせはそれぞれのデュエットで異なります)、そこで演奏される音楽素材は「光」のそれぞれのオペラからの音楽が引用です。例えば「火曜日」から「ピエタ」、「金曜日」から「エルーファ」などが演奏されます。これは巨大なオペラを締めくくるに当たっての一種の回想的な雰囲気を出すともに「日曜日」の「ペア」の概念も反映しています。

正直言って特にこの部分では、オーケストラ奏者のシュトックハウゼン作品に対する理解不足と練習不足を露呈する結果になっていました。これらのデュエットの引用元の音楽は「光」のそれまでの作品に親しんでいる人ならすぐに判別できるものばかりなのですが、これはつまりそれらの作品の最高の演奏をCDや実演を通して知っているという事を意味します。ゲネプロを聴いた客席にはシュトックハウゼン講習会で「アヴェ」や「エルーファ」の素晴らしい演奏を聴かせた二人組がいましたが、おそらく自分たちの方がもっとうまく演奏できるだろう、と心の中で思っていたにちがいありません。さすがに特殊な改造の施されたフリューゲルホルンを必要とする「ピエタ」にはシュトックハウゼンの息のかかっているマルコ・ブラウがエキストラとして加わり演奏していました。昨年講習会の演奏会で聴いた彼の「ピエタ」はマルクス・シュトックハウゼンの文句の付け所のない演奏の足下にも及ばないものでしたが、それでも彼のシュトックハウゼン作品への理解がどの他のオーケストラ奏者よりもずば抜けて深かったのはある意味当然です。具体的にはシュトックハウゼン作品の演奏には必須である明確なフレージングが徹底されてなかったため音楽の構造が見えにくくなっていたのですが、これは練習時間の不足に起因します。とはいっても通常の演奏会のリハーサルよりははるかに多くの時間をかけている(数週間)のですが、数ヶ月間にわたって作曲者とともに綿密なリハーサルを繰り返したコーラス・グループの卓越した演奏と比べても、リハーサル不足は演奏の出来にはっきりと表れていました。そのことに関してはシュトックハウゼンも不平を述べていて1月の終わりに行われた世界初演の時には、彼に言わせると、それっぽい雰囲気は出せていたけど、楽譜に対する正確さはまだまだだ、というレベルだったようです。それからさらに1週間以上のリハーサルとCD録音のためのセッションを重ねている筈ですが、それでも完全に満足できるレベルにまで達しえなかったという事実には、作品の難易度に見合った十分なリハーサルの時間が取れないオーケストラ運営の大変さもよく表れています。

さて、さきほどステージ上方の5つのスピーカーからもう一方のステージの演奏が数ヶ所の部分で聞こえてくることを説明しましたが、これは本当に不思議な効果を生みます。突然空中に窓が開いて異次元からの音楽が突然挟み込まれるような感じと言えばいいのでしょうか、これは「少年の歌」以来探求を続けている「空間音楽」の概念への新しいアプローチであるといえます。
作品の終わり近くになるとオーケストラの奏者達が徐々に客席の方へ向き始めます(それまではステージ後方で客席側に向かってタクトを振っている指揮者を見ていました)。何が起こるのかと思っていると、ある部分からステージ上の5人の指揮者の代わりに客席の中央、ちょうどミキサーのすぐ前にじっと座っていた指揮者がタクトを振り始めました。この作品のコーダに当たる部分だけは全員が共通した一つのテンポで演奏するので、そのためにスタンバイしていた、と言う訳です。基本的にステージ上の5人の指揮者は純粋にテンポを示すだけで、演奏上の細かいダメだしなどはこの客席中央の指揮者が行っていました。そのあとシュトックハウゼン自身によるダメ出しがあり、奏者がホールを入れ替わるために長い休憩に入りました。

ちなみにケルン・フィルハーモニーではシュトックハウゼンがミキサーを操作し、もう一つの演奏会場であるWDRのホールではブライアンがミキサーを操作していました。演奏者ひとりひとりに別々のマイクを立てている事もあり、ミキサーの操作や調整は至難を極めた事と思いますが、今回はカティンカがシュトックハウゼンの右側に座り演奏中シュトックハウゼンと一緒にフェーダーの操作を急がしそうに行っていました。

この休憩で奏者がホールを移動している間に、ステージのセッティングが直されます。基本的にはオーケストラとほとんど同じ配置で合唱団員も演奏しますが、補助楽器の配置など細かい転換が行われました。

さっきまでオーケストラ奏者が座っていた椅子に今度は合唱団員が座りますが、全ての歌手に一本ずつマイクが割り当てられている事は変化ありません。しかし、今度はステージ上に指揮者がいません。
どうやって演奏するのかと疑問に思っていましたが、なんと5つのそれぞれのグループの歌手のひとりが歌いながら(もちろん5つの異なるテンポで同時に)指揮をし始めたのです。
別の歌手は歌いながらリンやゴングなどの補助的な打楽器も演奏したりとなかなか大変そうでしたが、前述の通り入念なリハーサルの甲斐あり非常に素晴らしい演奏でした。「水曜日」の「世界議会」「ミヒャエリオン」などの合唱指揮で卓越した仕事を行ったシュトックハウゼンの信頼も篤いルペルト・フーバーがこのコーラス・グループの指導をしたことも大きく関係していると思われます。
コーラスはオーケストラにはないもう一つの大きな問題を克服しなくてはなりませんでした。それは言葉です。オーケストラと同様、コーラスも5つのグループに分かれ、5つの別々なテンポで同時に歌うという離れ業を行うだけでなく、5つの別々な言語を同時に歌うという要求にも応えなくてはいけません。サンスクリット語、中国語、アラビア語、英語、スワヒリ語という世界各地の言語が同時に歌われる事により極めて複雑な音響がうまれますが、シュトックハウゼン流に言うとここに「言葉の結婚」が達成されているとも言えます。もちろんここには世界の人たちが助け合いながら平和に生きていく、というシュトックハウゼンの願いが込められている事は疑いがないですが、こうした作品を作曲していた当時、シュトックハウゼンがテロリストを称賛したかのような事実無根の報道がなされ心理的にもショックを受けていたであろう状況を改めて考えると、なんともいえない気持ちになります。

コーラス・グループではオーケストラ・グループにあった7つのデュエットは演奏されません。その代わりにひとつの興味深いエピソードが挿入されます。
舞台上手の方から一人のトランペット奏者がステージに入ってきて一人のソプラノ歌手の前へ進みます、ソプラノ歌手は立ち上がり、トランペット奏者とともに歌い始めますが、トランペットがミヒャエル、ソプラノがエーファを象徴している事はいうまでもありません。ひとしきり演奏するとトランペット奏者は再び舞台袖へ帰って行きます。
コーラス・グループの演奏時にも、別ホールで演奏しているオーケストラの演奏が上方のスピーカーから数ヶ所で再生されますが、先程ステージで聴いていた演奏が今度はスピーカーから聞こえ、逆にスピーカーから聞こえていた演奏が今度はステージで演奏される事を確認する事により、いま2つのホールで何が行われているのか確実に理解する事が出来ます。今回はスピーカーという「窓」から音が聞こえてくるだけでなくトランペット奏者という「実体」が(異次元から)ステージに現れるというエピソードが加わるのはなかなか心憎い演出ではあります。

ちなみにスピーカーから異次元からの音が聞こえてステージの演奏と混ざることや、トランペット奏者が突然ステージに現れるアイデアは70年代の作品の「トランス」と極めて類似していて、非常に興味深いです。「トランス」では「異次元の世界」はステージ上に仕切られた壁のすぐ裏にあったのに対し、Hoch-Zeitenでは物理的に離れた別のホールにあるという点で「異次元世界のリアリティ」が大きく異なっていますが。。。

コーラスもオーケストラと同様に最後の部分だけ共通したひとつのテンポで演奏され、ここで客席のルペルト・フーバーが指揮をはじめますが、彼のすぐ近くに座っていた私のところまで、彼の息音や唸り声までかなり聞こえてきて、彼の気合いの一端を伺い知る事が出来ました。ちょっと耳障りでもありましたが(笑
結尾部分のソプラノの高音の発声など若干の不満もありましたが、それでもコーラス・グループの素晴らしい演奏が生み出す複雑にしてクリアーな音のテクスチュアには大きな感銘を受けました。

2度目のこの演奏ではホール同士のコンタクトで問題があったらしく、途中でもう一度演奏し直しましたが、オーケストラの練習不足を考慮しても作品の魅力が十分に伝わってくる素晴らしい演奏を楽しむ事が出来ました。
このようにゲネプロですでに大きな感銘を受けてしまったのですが、夜の8時から今度は本番の演奏を聴く事になるのです。友人達と昼食をとりながらゲネプロの感想などを話し合いました。

その後ホールで少し休み開場の7時前にもう一度フィルハーモニーへ向かうと、朝会った人とはまた別のシュトックハウゼン講習会絡みの友人たちを見つけいろいろと話をしました。少なくとも私にとっては遠い異国の地であるケルンのとある演奏会で、約束をしていた訳でも無いのにたくさんの知人に出会うというのはとても不思議な体験でした。
満席とはいきませんが数多くの聴衆が集まり、この新作に対する関心の高さが窺えましたが、開演のベルのあとシュトックハウゼンがステージに上りいよいよ演奏会本番が始まります。ステージでシュトックハウゼンが簡単に作品の説明をして、ミキサー席に戻り1回目の演奏が始まりました。
ゲネプロと同様に私のいたフィルハーモニーではオーケストラ・グループの演奏から行われましたが、明らかにゲネプロの時と演奏の傾向が異なっている事にすぐ気付きました。
お客さんが入るとホールの残響のニュアンスが変わってしまうのはよくありますがそういうこととも状況が違うようです。ゲネプロのときにはそれなりにクリアーに聞こえていた音響が今回は少し不鮮明に感じるのです。
どうもオーケストラの演奏はゲネプロの時よりも少し音量が上がっているようなのです。このことによってゲネプロの時には実現されていた楽器間の音量のバランスが崩れ結果的に音響が不鮮明になってしまったのだと思われます。
シュトックハウゼンの音楽はそれほどまでに繊細に作曲されているのです。彼が自作のリハーサルを行う時に楽器間の音量のバランスを演奏者に事細かに指示しますし、ミキサーを使う事によってそのバランスをさらに繊細に補正していますが、それはそこまでしないと意図した音響イメージが実現しないからなのだ、ということがよく理解できました。
オーケストラ奏者の側にも練習不足なところを本番は「勢い」で乗り切ろうとする意識が働き、このような結果になったのかもしれません。
このように演奏内容にはやや不満を感じましたが、それ以外には大きな事故もなく一度目の演奏が終了しました。

そしてかなり長い休憩(おそらく30分位だったと思います)を挟んで、2度目の演奏が始まりました。今度はゲネプロでも卓越した演奏を聴かせてくれた合唱グループですから、こちらもリラックスして聴くことが出来ます。オーケストラの様に本番で突然音量が変わってバランスが崩れる事もなく、相変わらず美しくて精巧な声の織物を楽しむ事が出来、至福の気分に満たされてこの演奏会は終了しました。合唱指揮のルペルト・フーバーも満足げな表情でステージに立っていました。
演奏会が終わったあとは、シュトックハウゼン講習会のスタッフ達とも合流し夜中までお酒を飲み、素晴らしい音楽の余韻を味わいました。

この演奏会前に録音されたオーケストラパートにはシュトックハウゼンは依然として不満を持っているらしく、部分的な録り直しが今でも続いているようですが、どうやら今年の夏の講習会ではこの作品に関するレクチャーを行うようです。そうなると当然この録音が使用されるでしょうから、またこの複雑で美しい作品を聞くことが出来る訳で非常に楽しみです。