シュトックハウゼン講習会(2003年)

Die 7 Lieder der Tage

115_1560_2

 一昨年に引き続いて、今年も受講生のコンサートで演奏することができました。演奏した曲は去年から勉強していた「Die 7 Lieder der Tage」という曲です。「7つの曜日の歌」とでも訳せばよいのでしょうか。この作品は「光」の「月曜日」の第2幕で7人の子供が7つの曜日についての小さな歌を順番に歌っていく場面をソリスト(歌手でも楽器奏者でもよい)で演奏できるようにアレンジした作品で、シンセサイザー(またはその他の和声楽器)とのデュオという編成になっています。ただし、このシンセパートは省略して無伴奏のソロ作品としても演奏できます。
昨年は本講習会のシンセサイザーのクラスの講師であるアントニオと一緒に演奏しながら勉強できたので、今年のコンサートでは是非デュオで、と思っていて、アントニオやその他のシンセの弾ける受講生と調整をとっていたのですが(最終的にはシュトックハウゼン本人も絡んできました)、それぞれのスケジュールの都合などでうまく都合がつかず、結局無伴奏ヴァージョンでの演奏となりました。

この作品は演奏時間約8分の小さな作品なのですが、きちんと演奏しようとするととてつもなく難しく、キュルテンにいた一週間は毎日4〜6時間この短い曲だけをさらっていました。
この作品は7つの小さな歌から構成されていて月曜日から日曜日までのそれぞれの曜日について(つまり「光」のひとつひとつのオペラについて)説明していく構成になっていて、「光」の3声のスーパー・フォーミュラを細かく分割してソリストでこのフォーミュラをほとんどオリジナルに近い形ですべて演奏するようになっています。例えば「月曜日の歌」では「月曜日」のフォーミュラがエーファ、ミヒャエル、エーファ、ミヒャエル、ルツィファーの順番で全て演奏されます。

フォーミュラは70年代以降のシュトックハウゼン作品においては全曲の構成の基礎となる重要な役割を持っていて、音楽的に変化に富むように、フォーミュラは音程、リズム、テンポ、音色、音量などのそれぞれの要素の多様性が発揮されるように作曲されています。
したがってこのフォーミュラ全体をほとんどそのまま使った「Die 7 Lieder der Tage」では当然そうした多様性が短い演奏時間の中に凝縮されているので、ほとんど1つのフレーズごとに音楽的なキャラクターが極端に更新されるような格好になっています。

ここでは、そうしたシュトックハウゼン作品を演奏するために重要だと思われる事を列挙していきたいと思います。

まず、今や非常に有名になっていることですが63.5, 107などの「テンポの半音階」は当然厳密に守らなくてはいけません。例えば「日曜日の歌」ではテンポが8小節の間に 63.5(3拍) – poco rit.(2拍) – a tempo(6拍) – 67(2拍) – 60(1拍) – 67(2拍) – 60(1拍) -rit(4拍). – 67(2拍) – 60(2拍) – molto rit.(2拍) – 60(5拍) – rit.(2拍) – フェルマータ というように細かく変化しますが、メトロノームを駆使してこのテンポ感が体に入るまで何度も練習する必要があります。
シュトックハウゼン作品においてはリタルダンドも厳密に規定されています。rit. はもとのテンポの2分の1まで、molto rit. はもとのテンポの4分の1まで、といった感じです。これは通常のリタルダンドの感覚よりも極端な感じなのですが、ともかくテンポの到達点をやはりメトロノームで確認してリタルダンドのテンポのカーブをやはり体に叩き込む必要があります。
「日曜日の歌」では4分音符=60からの2拍にわたるのmolto rit.がありますが、これは4分音符=15までテンポを落とすと言う事を意味します。ここのフレーズでは3連符が支配的ですのでそのテンポで読み替えると180から45まで落とすと言う事です。この2拍のmolto rit.のなかに3連符が6つあるので、4つ目の3連符でテンポが90、残りの3つで45まで落とすということですから、このリタルダンドの極端さが分かるかと思いますし、この感覚に慣れるためにはメトロノームで厳密に練習する必要があります。

次に、音量の設定です。シュトックハウゼン作品の演奏において音量のバランスをとるというのは非常に重要で、しばしば数拍の間に極端な音量の変化を作らなくてはなりませんし、一つの音符ごとに細かく音量を変えなくてはいけないところも少なくありませんが、それも体に入るまで徹底的に練習する必要があります。音量だけ考えるのならそれほど難しくないのですが、同時に音程やリズム、歌詞などに対する要求に応えていこうとすると、これは大変困難な作業になってきます。個人的にはこの部分でもっとも苦労しました。

当然、音程を正しく取る事も非常に重要です。
2年前にTierkreisを演奏した時シュトックハウゼンからいくつかの不正確な音程について指摘されたので、今回はかなりシビアに練習したのですが、シュトックハウゼンからかなり音程が正確になってきた、と演奏の直後に褒めて頂きました。しかし、その一方でその次の日には、一般的に無伴奏で歌うとどうしても音程が狂いやすいし、楽器の演奏に比べると、明らかに音程の悪い所が多い、とも指摘され、この人には本当に妥協がないのだな、と痛感しました。
そして、この作品にはいくつかの微分音のフレーズがありますが、「日曜日の歌」には8分音と4分音が出てきます。G音とその8分音上の音、Gの4分音上の音の3つの微分音だけで6拍歌うフレーズがあってこのフレーズを正確に歌うのには非常に苦労しました。広すぎても狭すぎてもだめで、アントニオにお願いしてシンセでこの微分音をプログラミングしてもらい、一緒に練習することによって何とかイメージをつかみましたが、このフレーズにはさらに細かいアーティキュレーションや音量の変化があり、本番ではおそらく練習時の半分くらいの成果しか出せなかったと思います。

今少し触れたアーティキュレーションですが、これも非常に重要です。要するにスタッカート(シュトックハウゼンの場合は常に極端に短いです)、テヌート、アクセントなどをきちんと守る、ということで、一見何でもなさそうなのですが、音量の変化と常にセットになっていて、その指示も細かいので、体に感覚がつくまでは非常にアクロバティックなことをやっている気分になります。そして、このアーティキュレーションは歌詞の発音の面でも非常に細かい要求があります。とにかく、子音を極端なまでにはっきりと発音する事が要求されますし、それはしばしば子音を別シラブルとして記譜されている所にも反映しています。同じシラブルで音程を変えたり、同音で歌い直したりする場合は常に”h”をそれぞれの音にくっつけて、Mo-ho-ho-ho-hon-ta-ha-ha-ha-ha-ha-ha-k(=Montag)などと発音する必要があり(こちらも楽譜に明記されている事が多いです)、そのテクニック自体は合唱でメリスマを歌う時によく使うのですが(結果としてフレーズが明確に聞こえるようになります)、頻繁に出てくるので、これを完全にこなすのは容易ではありません。

子音をなぜ強調するかというと、言葉を明確に伝える目的とともに、子音のノイズ的性格を母音と同等に扱う意図もあります。そしてそのノイズ的性格がさまざまな特種唱法(グリッサンド、息を混ぜて歌う、シュプレヒ・シュティンメ、音程のない語り、舌うち、指のクリック、倍音唱法、指を咽喉や唇に当てる事によるトレモロ、t, j, f, sh の子音を完全にノイズとして扱った唱法、キスの音、足で床を鳴らしたり擦らせたりする事によるノイズ、ファルセット、ヨーデル風な効果、金管楽器を吹くように唇を震わせそれをマウスピース風に丸めた指に当て同時に歌う事によるリングモジュレーション風の効果、口笛、気息音、手拍子や手を擦りながら歌う)と結びつく事によって、短い演奏時間の中に声のありとあらゆる可能性を使い切る結果になるのです。
明らかな特種唱法はやり方をマスターすればそれほど大変ではありませんが通常の歌と語り風の歌い方を厳格に区別するのは極めて難しいです。それぞれの唱法で息を混ぜた歌い方、混ぜない歌い方を区別する必要があるし、それらがしばしば短い時間に交代し、音量やアーティキュレーション、その他の特種唱法などについても同時に考慮しなければならないからです。

そして、こうした演奏上の困難を克服しながら、ジェスチャー付きで歌わなくてはなりません。1曲ごとの基本姿勢(座る、片ひざを立てるなど)があり、その姿勢を保ったままで、楽譜に詳細に示されたジェスチャーを付けながら歌うのですが、しばしば歌いにくい体勢のこともありますし、手と足で別の事をしながら複雑なフレーズを歌わなくてはならなかったり、数秒ごとに違うジェスチャーをして数種類の特種唱法を切り替えるなど、ほとんどサーカスの曲芸のような感じですから、そちらの練習も困難を極めました。
しかし、もともと子供が歌う曲ですから、そうした複雑な事を大変そうにやるのでなく、しばしばユーモラスに楽しく行う事も必要です。この辺は私の得意分野ですが(笑)、やはり演奏自体が大変なので、しばしばもっと楽しげに、とダメ出しをされました。

やはり、シュトックハウゼンという伝説的な人物の前で演奏するのは緊張するものです。2年前よりはリラックスして演奏できましたが、ステージに立つと、他の舞台では体験できない不思議な空気を感じました。
練習の100%がとても出せたとは思えない本番でしたが、それでもお客さんの反応はとてもよく、演奏直後にシュトックハウゼンに会うと、彼は(幾つかの小さな不満を述べつつも)とても喜んでいて、「私の演奏からは誠実さが感じられる」というコメントを頂きました。たしかに、スコアに書かれた詳細な指示を最大限の努力で音にしようと努力をしましたから、そこを指摘してもらったのはとても嬉しい事です。

短い時間でとても処理できないような要求を次々としてきた声楽の講師のニコラスも(今回は前回に増して鬼のように厳しく集中的なレッスンでした)、とても喜んでいてビールをおごってもらい、例によって知らない人が次から次へと「おめでとう」と握手を求めてきたりと、厳しい練習の成果はありましたが、私の演奏はコースの最終日の前日だったので、本当にリラックスして過ごせたのは最後の1日だけ、しかもかなりぐったりした状態だった、ということで充実はしたものの非常にハードな一週間でした。

115_1539_4 115_1536_2

114_1484 119_1954


ピアノ曲、少年の歌、コンタクテ

シュトックハウゼン講習会は毎回充実した内容なのですが、それが故に、予算などの理由などによって開催自体が危ぶまれたりなどといった話もよく聞いたりしますが、今年の講習会ほどはらはらした事はありませんでした。
この講習会の開始以来ずっとピアノのクラスの講師として務めていたエレン・コルヴァーは今回の講習会でアコースティック・ピアノのために作曲された14曲の「ピアノ曲」を数回のコンサートで全曲する予定になっていました。彼女はこの14曲の「ピアノ曲」をシュトックハウゼン監修のもと録音していますから彼女のレパートリーであるといってもいいでしょう。しかし、どの作品も気楽に演奏できるものは一つとしてないですし、VI, X, XIIIなど、一曲での演奏時間が30分前後に及ぶ大作も含まれている訳ですから、ひとつの演奏会のシリーズでこれら全曲をひとりのピアニストが演奏するというのは非常に野心的な企画である訳で、どのような演奏になるのか、多くの人が期待と不安を入り交じらせながら楽しみにしていたのですが、なんと、講習会開始の数日前になって彼女が演奏をキャンセルしたのです。
私がキュルテンについた日にその話を聞いて、その時点ではそのキャンセルの穴をどのように埋めるかという公式な発表はなかったので、多くの人が今回の講習会の行く末を心配していました。
同じ月にザルツブルク音楽祭で行われる予定であったマウリツィオ・ポリーニがシュトックハウゼンのピアノ曲を作曲者の監修によって演奏する、という企画もポリーニの体調不良によりキャンセルになっていましたし、今年のシュトックハウゼンはピアニストに関しては運が悪いのかな、などと余計な事まで考えもしました。
実はエレン・コルヴァーは昨年の講習会での演奏(ピアノ曲XII〜XIV)もキャンセルしています。理由は直前になって背中を痛めて演奏できなくなったということでしたが、演奏の方は優秀な受講生のフランク・グートシュミットが立派な代役を果たし、レッスン自体はエレン・コルヴァーが予定通り受け持ちました。しかし、今年は演奏ができないだけでなく、講習会自体にも参加できない、つまりレッスンもできない、ということで、そうした申し出が講習会の直前にあったためにスタッフたちは大慌てで対処に当たる事になったのです。
予定されていた彼女の演奏会は数回にわたっていましたし、ピアノの受講生も続々キュルテンへやってきていて、レッスンがどうなるのかも分からない状態で多くの人がとても心配していましたが、講習会初日にシュトックハウゼンからこの問題に対する説明がありました。

まず、ピアノのクラスの講師のエレン・コルヴァーは講習会直前になって足を折る大けがをしてしまい、現在も入院しているのでキュルテンに来る事が出来ないので、レッスンも演奏もできない、という現状の説明があり、その穴埋めとして受講生として以前から参加していたベンジャミン・コブラーとフランク・グートシュミットの二人が代役として演奏し、ピアノのクラスのレッスンもこの二人が代わりの講師として指導をする、という発表がありました。ただし、I〜XIVの全曲を二人の優秀なピアニストと言えども、一週間弱で完全に準備をすることはとても難しいので、VI, XII, XIII, XIVの4曲は割愛する事になり、その代わりに2つの電子音楽作品「少年の歌」「コンタクテ」と今年のコンポジション・セミナーのテーマ作品の「Hoch-Zeiten(合唱版)」の5チャンネルの録音を演奏するとのことでした。
シュトックハウゼンはこの決定に関して、「なかなか良い解決方法、そしてこの解決方法は永続的なものになるだろう」といった表現をして、特に後半のフレーズについて彼はそれ以上の具体的な言及はしませんでしたが、その時その場にいた全員が、エレン・コルヴァーは今後この講習会へ来る事はなく、ベンジャミンとフランクの二人が今年からピアノのクラスの新しい講師へ「昇格」すると理解しました。

さて、ベンジャミンはI〜V、VII〜IX、XIの9曲の「ピアノ曲」を演奏しましたが、どれも彼のレパートリーに入っている作品なので、短い準備期間にも関わらず非常に余裕の感じられる演奏を披露しました。特に(去年は受講生として演奏した)XIは音の星のような煌めきが強く印象に残る演奏でした。本人にきちんと確認はしていませんが、おそらく昨年演奏したのと同じヴァージョンだと思います。
フランクはXの一曲のみを演奏しましたが、ご存知の通りこの曲は30分近くの長大な演奏時間を必要とし、クラスターやクラスターのグリッサンドなど体力の必要な奏法を多用し、リズムの記譜法も非常に独特で様々な音楽事象が複雑に入り組んでいるため、この作品を演奏する事は非常に困難ですが、彼は2年前に受講生のコンサートでシュトックハウゼンが驚きを隠せなかったほどの素晴らしい演奏を「暗譜で」披露していることもあり、今回も期待を裏切らない非常に卓越した演奏で、完全にこの複雑極まりない音楽が体に染み込んでいるのがありありと客席に伝わってくるほどでした。

これらのピアノ曲と組み合わせて「少年の歌」と「コンタクテ」という2つの古典的といえる電子音楽の名作が演奏されました。これらの作品は同じプログラムで演奏された「ピアノ曲」と同じ時期(1950年代〜60年代初頭)の、いわゆる「前衛の時代」の作品ですから、プログラムの組み合わせとしてもとてもバランスの良いものでした。
「少年の歌」はなんだかんだといってここ毎年演奏されていますが、やはり何度聴いても聞き飽きる事のないどころか、聴けば聴くほど作品の素晴らしさがどんどん滲み出てくる大傑作である事を再確認しました。  「コンタクテ」も毎年のように演奏されているのですが、私が聞いたのはすべてピアノと打楽器を伴う版での演奏で、電子音楽のみの版を聴くのは今回が初めてでした。この作品はタイトルが示すように電子音と生楽器の音との関わり合いや、電子音が生楽器の音へ、あるいはその反対の方向へと変化していくように聞こえる効果などが作曲上の大きなテーマになっているのですが、その要素を剥ぎ取った電子音楽のみのヴァージョンそれ自体もとても興味深いものでした。この電子音楽は音源としては基本的にパルス波(ブザー風の音色)の発振器だけなのですが、そのパルス波をフィルター処理などを施して複雑に変容する事によりたった一種類の音源から信じがたいほど多彩な音色を生み出しています。電子音のみの版で聴く事によりこれらの音色の多彩さと複雑な倍音構造をじっくりと味わう事が容易になっていますし、ドラの音色をテープで遅回ししたかのような非常にゆっくりとした(そして微細な音色の変化に富んだ)音像の動きからシュッシュッと4つのスピーカーを素早く動き回るホワイト・ノイズ風の音色などの細かい効果まで、存分に楽しむ事が出来ました。
今年のドイツの夏は40度を越える日もあった猛暑でキュルテンもその例外ではなく、冷房のない蒸し暑い部屋で30分以上の長大な電子音楽を聴取するのはかなり大変なものがありましたが、それでもほとんどの聴衆はその熱さにも関わらず作品を集中して聴き続けました。
そして、今年の「コンタクテ」の演奏に対する聴衆の反応はその暑い気候に比例してか、非常に熱狂的なものでした。
シュトックハウゼンが何度もカーテンコールに応じているのですが、拍手は鳴りやむどころかますます大きくなり、さながらロックコンサートのような叫び声や足を鳴らす音もどんどん熱狂的になっていくのです。熱心な聴衆の多いこの講習会のコンサートでもここまでの熱狂はまれで、ついにシュトックハウゼンは聴衆に向かって発言しました。「一日、コンサートのプログラムが比較的短い日があるので、その日のプログラムの最後にもう一度『コンタクテ』を演奏します。」
そこでもう一度熱狂的な拍手が沸き上がり、その日の演奏会は終わりました。
この日の聴衆の異例な盛り上がりに対してある受講生はこう表現していました。「全員まるで子供のように騒いでいた。」
そして、私ももちろん子供のように喜んでいました。


ティアクライス(トリオ版)、カプリコーン

今年の講習会では私が2001年に演奏した「ティアクライス」が講師陣により演奏されました。今回演奏されたのはシュトックハウゼン自身による3人の奏者のためのヴァージョンでクラリネット、フルート(ピッコロ持ち替え)、トランペット(ピアノ持ち替え!)という楽器編成です。透明感に満ちた非常に美しいヴァージョンで、メロディーの変容やテンポ、音色の変化なども作曲者ならではの創意と変化に満ちたものです。「ティアクライス」の録音は巷に色々なヴァージョンのものが出回っていますが、ほとんどのものがメロディーをなぞっただけの創意工夫のないものです(数少ない例外はマルクス・シュトックハウゼンによるトランペットとオルガンによる非常に神々しい響きを持つヴァージョンでしょう)。少なくとも現在出回っているものの中ではシュトックハウゼン自身によるこのトリオ・ヴァージョンのものが最良だと思いますので、それを聴くことによってこの作品に秘められた可能性をより多くの人々に感じ取ってもらえれば、と思います。演奏内容ですが、この作品は数あるシュトックハウゼン作品の中ではテクニック的には容易なものの部類に入りますので、シュトックハウゼンの難曲を何曲も手がけているマルコ、カティンカ、スージーの3人の演奏は非常にリラックスした余裕の感じられるものでした。

シュトックハウゼン自身による「ティアクライス」の版で決して忘れてはならないのが「シリウス」という別の作品へと発展していった非常に巨大で複雑なヴァージョンです。この作品は言ってみれば「ティアクライス」にさまざまな注釈を付けながらソプラノ、バス、トランペット、バスクラリネット、8チャンネルの電子音楽で演奏する超巨大版と言ってもいいのですが、さらにこの「シリウス」からいくつかの派生版も作曲されています。トランペットと電子音楽のための「アリエス(牡羊座)」、バス・クラリネットと電子音楽のための「リブラ(天秤座)」そして今回演奏されたバス独唱と電子音楽のための「カプリコーン(やぎ座)」です。
この曲は「シリウス」の冬の星座にあたる部分をバスと電子音楽で演奏するのですが、ここで要求されているバスの声種はBasso profonso というバスの中でも極端に低い声で、低いD音まで要求されます。この「カプリコーン」も非常に低い声域のバスの声と極端に低音域に偏った重厚な電子音から始まり、「低音フェチ」にとっては至福の響きといえます(笑)。この重低音はもちろん家庭用のスピーカーでは決して再生できないものですし、生楽器の演奏者が「シリウス」のオリジナル版よりも減ることによって8チャンネルの極めて複雑な電子音楽がよりクリアーに聞こえてくるのは、生演奏ならではの楽しみですが、残念だったのがバスの声と電子音楽のバランスです。リハーサルで電子音の音響のセッティングでかなりトラブルがあったようなのですが、それと関係してか声が電子音に隠れがちでニコラス・イシャーウッドの気合いの入った演奏をあまり楽しむことができなかったのです。これまで録音のなかったこの作品も最近になってようやくCD化されたので理想的なバランスでこの作品を味わい直したいと思います。
ちなみにソプラノと電子音楽のための「キャンサー(蟹座)」というのもあってもよさそうですが、このヴァージョンだけは現時点での作品表には載っていません。


「カレ」「祈り」

シュトックハウゼン講習会の規模、予算ではオーケストラなどの大編成の作品を演奏することは無理なのですが、電子音楽のようにテープを再生することによってこうした作品の上演の機会を作る、というのは非常にシュトックハウゼンらしいといえます。テープによる上演というとなんだかチープな印象がありますが、シュトックハウゼンにとって生演奏であろうと電子音であろうと録音された生演奏であろうと音は音です。そして、彼にとっては録音はミスの全くない音量のバランスが完璧にとれた理想の「演奏」をいつでも聴けるようにする「都合の良い手段」でもあります。
カレ」はシュトックハウゼンの若き日の傑作で4群のオーケストラと合唱が聴衆の周りを取り囲んで演奏するという実に再演のしにくい曲で、四方から音響が聞こえてくるという体験も一般的なステレオ装置ではほとんど不可能です。今回の上演は4チャンネルのテープによる上演でしたから、「カレ」の大きな特徴であるこの音響の空間移動の効果をたっぷり楽しむことができました。このテープは世界初演のゲネプロの様子を録音した4チャンネルのテープ(この録音のステレオ・ミックスはシュトックハウゼン出版のCD全集第5巻に収録されています)を最近になってマスタリングし直し、音質の改善、チャンネル間の音量のバランスの修正などを施したものです。4チャンネルですからそれぞれのチャンネルに一つのオーケストラと合唱のグループがまとめられているので実演で聴く音響とはかけ離れているのですが、この作品の持つ電子音楽的な音響の側面が強調されて、あたかも生楽器で「コンタクテ」の電子音楽を演奏しているような面白い効果が出ていました。そして当然ながらステレオ・ミックスで聴くよりも音質はクリアーになり、個々の音は輝きを放って空間を蠢いていました。ほぼ同時期のオーケストラ作品である「グルッペン」の動的で華麗な音響に比べて「カレ」の静的な音楽は一見地味に聞こえますが、むしろこちらの方に後のシュトックハウゼンへつながっていく要素があるし、聞き込めば聞き込むほどに新しい発見のある、より深い味わいがあると言えると感じます。

さて、2000年に引き続き今年も演奏された「祈り」ですがこちらのオーケストラの録音は前回と同じくステレオによる再生でした(というか、シュトックハウゼン全集のCDをそのままかけているだけです)が、巧みなセッティングによりステレオとは信じがたいほどの立体的な音響を楽しむことが出来ます。この「超高級カラオケ」に合わせてアラン・ルアフィとカティンカ・パスフェーアがマイムを演じる訳ですが、前回見た時にはところどころで「ずれ」のあった2人の動きが今回はよりピッタリと合っていました。細かく「記譜」されているはずのこのジェスチャーにも実は若干の「解釈の余地」が残されていて、その2人の微妙な動きの(ずれではない)差異も非常に興味深かったです。
そしてやはり今回も感動したのが「祈り」の音楽とジェスチャーの関連について詳細に説明する作品「HUについてのレクチャー」です。前回と同様、カティンカがこの「作品」を演奏しましたが、「祈り」に仕組まれた音楽とジェスチャーの精巧な連関について圧倒的な説得力で歌い、演じながら(「暗譜」で)説明するカティンカの1時間の(クールな)熱演にはただただ恐れ入るばかりでした。
余談ですが、この作品のリハーサルの時に、シュトックハウゼンが、カティンカの話す特定の単語がグリッサンドを伴って発音されるのが気に入らない、などと姑並みの細かいダメ出しをするのには、カティンカ本人を含め、リハーサルを見学していた全ての人から失笑が漏れていました(笑)。


「土曜日」からの派生作品

「光」に含まれる7つのオペラの中では地味な印象のある「土曜日」ですが、このオペラからの派生作品にはソリストとしての技量をアピールできる演奏効果の優れた作品が実は沢山あったりします。第1場をなす「ピアノ曲XIII」はエレン・コルヴァーの「ドタキャン」により今回演奏されませんでしたが、第2場の「カティンカの歌」、第3場からの「右眉毛の踊り」「鼻翼の踊り」「上唇の踊り」とたくさんの作品が演奏されました。

鼻翼の踊り」は一昨年のアンドレアス・ベティがーによる好演が印象に残っていますが今回は打楽器の新しい講師(今年で2回目です)、ミヒャエル・パットマンによって演奏されました。昨年の「ツィクルス」の演奏でも感じたのですが、私は彼の演奏があまり好きになれません。今回の「鼻翼の踊り」は似非ドラムセットを猛烈なバカテクで叩きまくり両手のバチを頭上にかざすロックミュージシャンなみのアクション(笑)も要する作品なのですが、テクニックはあるものの、この作品に要求されているユーモアのセンスがほとんどゼロなことに失望を禁じえません。このバチを頭上にかざすジェスチャーは音楽的にはほとんど意味がないのですが、その馬鹿馬鹿しいしぐさを思い切って出来るかどうかはこの作品の演奏にとって意外に重要なことだったりします。アンドレアスの場合はここぞとばかりに大見得を切ってこうしたしぐさをしてくれるので、見ててもとても気持ちいいのですがミヒャエル・パットマンはこの仕草が実に中途半端でそれならいっそ何もしなくてもいい、と感じるほどでした。シュトックハウゼンの数年前の「テロ発言」に過剰反応してシュトックハウゼンの元を離れていってしまったアンドレアスの愚行が悔やまれます。

一方「上唇の踊り」を演奏したマルコ・ブラウには非常に好印象を持ちました。昨年演奏した「ピエタ」は努力の跡は見られたものの、マルクス・シュトックハウゼンという偉大なトランペッターの後釜を勤めるプレッシャーからか演奏の集中度がいまいちで思わず寝そうになってしまった今一つの演奏を披露していましたが、今年はより演奏がこなれてきて今後の展開が非常に楽しみでした。この作品はトランペッターにとって過酷な要求に満ちた難曲で、逆にそれ故トランペッターとしての技巧と音楽性をアピールできる作品なのですが、彼は顔色に苦しそうな表情を見せていたものの演奏自体は完成度の高いものでした。

右眉毛の踊り」は今回世界初演となった作品ですが、複数のクラリネット、バス・クラリネットから構成されるアンサンブルとシンセサイザー、打楽器で演奏されます。オペラのこの「右眉毛の踊り」はそれほど長くないのですが、このヴァージョンでは続く部分もこのアンサンブルで演奏できるように編集しアレンジしているので全体の演奏時間は30分くらいはあったと記憶しています。クラリネットのアンサンブルは本講習会の受講生たちで演奏されましたが、気が付くとこういった比較的大きな編成の作品が演奏できるほどクラリネットの生徒が増えているのだな、と感心しました。このアンサンブル全体で眉毛を「演じる」のですが、クラリネットを全員でそろって上げたり下げたりすることによってこの眉毛の動きを演出するというシュトックハウゼンらしいユーモアに溢れた作品です。当然ながら音符自体の演奏は決して簡単ではありませんから、演奏しながらそうした動きをすることは非常に難しいのは分かるのですが、演奏者によっては前述のミヒャエル・パットマンのようにこうした動きが中途半端な人も一部いて、そこが難点だったかなとは思います。結局作曲者としては最終的には音符の方を優先するので稽古の日程がタイトになってくるとこうした視覚的な側面は後回しにされがちなのですが、こうした面まで丁寧に訓練された演奏も知っているだけに、その点に関してはやや残念だったとも言えます。

カティンカの歌」は今回フルートと電子音楽によるヴァージョンで演奏されましたが(2000年には受講生によってフルートと6人の打楽器奏者による版が演奏されました)、カティンカの演奏に関しては本当に非のつけ所がありません。この作品はシュトックハウゼンとカティンカの現在までに至る濃密なコラボレーションの原点とも言える作品で、彼女によって何度も演奏されているのでそれはある意味当然とも言えます。この作品の電子音楽はシュトックハウゼン作品では例外的なのですがIRCAMで制作されました。そのため他のシュトックハウゼンの電子音楽作品とやや音色感が異なりますが低音の持続音とその上で戯れる倍音列の響きをマルチチャンネルで味わえるというのはとても楽しい経験でした。ちなみに、この倍音の動きを強調した6チャンネルの電子音楽はその発想や6声という構成がなんとなく「シュティムング」を思い起こさせます。「光」にはシュトックハウゼンのそれまでの創作活動の集大成的な意味合いもあるので、しばしば作品の構成や発想に以前の作品で試みられたものが微妙にひねりを効かせて再登場することがよくあるのです(一方、過去の作品の音楽的な引用はほとんどありません。例外は「木曜日」の第3幕で「ティアクライス」のメロディーの冒頭が演奏されたり、「火曜日」の第一幕「暦年」で「ハルレキン」「マントラ」「祈り」のフォーミュラがさりげなく演奏される程度でしょうか)。

電子音楽の必要な「カティンカの歌」はともかく「上唇の踊り」や「鼻翼の踊り」はシンセパートなどを割愛してトランペット・ソロ、打楽器ソロで演奏できるのですが、日本国内で優れたトランペット奏者、打楽器奏者によって(おそらく日本未初演の)こうした作品が紹介されることを強く願ってやみません。


Hoch-Zeiten

関連記事:Hoch-Zeiten ドイツ初演レポート

今回のコンポジションセミナーのテーマは「日曜日」の最終場面「Hoch-Zeiten」の合唱部分でした。この作品のドイツ初演の演奏を聴きに行ったのですが、この作品についての概要などもその時のレポート(上記関連記事)に書いてありますのでそちらもお読み下さい。
この作品の合唱部分はオーケストラ部分と同様に全体が5つのグループに分けられて空間的に離れて配置され、クリック・トラックを使ってそれぞれのグループが同時に異なるテンポで演奏し、アッチェレランドやリタルダンドなどもそれぞれのグループで独自に行われるという極めて複雑な作品です。

この作品を説明するために、シュトックハウゼンは例年と同じように、「光」の3声のスーパー・フォーミュラの説明から始め、そこから「日曜日」全体の和声、および時間的構成がどのように決定されるか、そしてさらにそこからこの「Hoch-Zeiten」の全体の構造が導き出されるか、ということをテキストに転載されたカラフルな譜例やスケッチの自筆譜などを駆使して説明していきます。この時点で「Hoch-Zeiten」の各部分の演奏時間、それぞれのパートの中心音などの大まかな構成が確定しているのですが、その各部分をどのようなテンポで演奏するのかというのを決めていきます。まずこの作品中で使用する7つのテンポを(恣意的に)選び、コーラスの5つの各グループがこの7つのテンポをどの順序で演奏するかということをセリーとして構成します。ひとつのグループで同じテンポの部分が2回以上繰り返して演奏されることはありませんし、グループ間でも同時に同じテンポを演奏することがないように、そしてそれぞれのグループのテンポの変化が独自の特徴を持つように、グラフでスケッチを書いたりしながら調節します。そしていくつかの部分にリタルダンドなどの連続的なテンポ変化も加えて、さらに構成を豊かにしていきます。
現時点で確定されている各部分の演奏時間とテンポから、それぞれの部分が何拍で構成されるかを割り算で導き出し、つぎはその部分をさらに細かい部分に分けていくのですが、それを何拍ずつのグループにするか(それぞれのグループを1〜7拍と制限しました)というのをやはりセリーとして書き出し、プロポーションのバランスを取りながら決定していきます。そしてさらにその小部分のピッチ変化をどれだけ行うか、というのを小部分の拍数に応じて設定し、部分が変わるたびにその設定を変化させていくことで、作品の後半へ行くに従ってこの変化数が増大していくように、これもセリーの表を作ってコントロールしますが、ここでの膨大に数字が記されたスケッチはまるで50年代のセリーを全面的に使用していた時代の作品のそれのようでとても興味深かったです。もちろんさらに細かい音楽事象も詳細にスケッチを書いていって決定していくのですが、そのプロセスの多くの箇所にセリエルな思考が垣間見られ、シュトックハウゼンの若き日からの一貫した作曲姿勢が浮かび上がってきます。
さらに興味深いのが、シュトックハウゼンがこのように説明している順序でまさに作曲しているということです。どのような演奏形態を取るか、ということを決めて基本となる作曲素材(ここではフォーミュラ)を決めてしまうと、あとは大きな構造からより細かい構造へとどんどん決定していくだけで作曲が非常に効率良く進められていくのです。もちろんそれぞれの過程で選択をしなければならなかったり、新しいアイデアが必要だったりすることがあるのですが、変化や多様性を好むシュトックハウゼンの嗜好から、こうしたこともちょっとした閃きで解決しているように思えます。そして驚くべきことに、あらゆる作品の作曲過程は全体から部分へ進んでいく、ということ以外は演奏形態を最大限に生かすような独自の方法で進んでいくので、決してルーチン・ワークやワン・パターンに陥ることがないのです。
一部に誤解されているように、セリーが作曲者を縛ってしまうのでなく、複雑さと多様性を生み出す「道具」として作曲者が自由自在に扱うことができるのだ、ということを、シュトックハウゼンのこうした作曲過程から深く理解することが出来ます。

ところで、今回のレクチャーで面白く感じたのが、スコアに清書するための譜割をどのようにするか、ということまで細かく説明していたことです。たしかにこの作品は5つのテンポが同時に演奏されるのですから、上手く譜割を考えないと非常に見づらく、そして書きづらい楽譜になってしまいます。シュトックハウゼンはいくつか存在する全てのグループの拍が同期するポイントがページの冒頭にくるようにするなど、綿密な計画と文字通りの数字の計算によって複雑なりにも非常に見通しの良い譜割を実現しました。こうしたことは楽曲のアナリーゼとは全く関係ありませんが、こうした「おまけ」的なところも含めて作曲にまつわる全ての詳細を明らかにしていくシュトックハウゼンの非常にオープンな姿勢が反映しています。
数年前に「少年の歌」の膨大なスケッチの全てのファクシミリを一冊の分厚い本にまとめて出版したり、ほとんど全ての彼の作品のスコアやCDを彼自身が運営するシュトックハウゼン出版から体系的に発売するなど、一人の作曲活動にまつわるすべてをここまで集中的にオープンにしている作曲家は世界中のどこを探しても彼以外にいないでしょう。

彼は近作の録音を編集するにあたってCDに収録するためのステレオ・ミックスに加えて、マルチ・トラックによるミックスも同時に制作しています。
シュトックハウゼンの諸作品は作品ごとに非常な特殊な演奏形態を必要とするために再演するのが非常に大変なのですが、マルチ・トラックのテープの再生による上演であれば、それよりもはるかに容易に、そして演奏者のその時の調子に左右されない完璧な演奏を再現することができます。
「日曜日」の現在までに初演、録音された4つの部分はすべてマルチ・トラックでも演奏できるように編集されていますし、「Hoch-Zeiten」は5チャンネルで再生できるようにミックスされ、今回のコンポジション・セミナーでもこのテープが大活躍しました。
マルチ・トラックによるテープはステレオ・ミックスよりもはるかにクリアーな音像を再現することができますし、シュトックハウゼンの作品の大きな特徴である「空間音楽」的な要素を実演に近い形で再現することも出来ます。
そして今回のようなアナリーゼの資料として使用する場合には、例えば第2ソプラノだけを聞いてみましょう、というような事態にも簡単に対応することが出来るので、作品の特定の細部だけを聞くことによる作品へのより深い理解を得ることも出来ます。

毎年、このコンポジション・セミナーのためにテキストが配付されるのですが、これが中々内容が充実していて、年々テキストの厚さも増していっているように感じます(今回は72ページという大作でした)。紙は上質なものを使用しほとんどのページがカラー印刷、もちろんスケッチ、譜例が満載です。、余ったテキストはシュトックハウゼン出版から購入することも可能なので、興味のある方は一読をお薦めします。