「ヒュムネン」「テレムジーク」など
今年でこの講習会に参加するのも3回目となりすっかり常連となってしまいましたが、それでもシュトックハウゼン作品の気付かなかった側面を数多く発見しますし、それは他の作曲家の作品の聴取や演奏にも大きな影響を及ぼします。もっと下世話なことも書けば、当然顔なじみ(悪友?)も増えますし、スタッフから各受講生への説明も「あなたは何回も来てるから説明する事はありません」と言われて書類を渡されてすぐ終わり、といった感じです。
今年の講習会での演奏会でも当然の様にシュトックハウゼンの電子音楽の名作の数々が演奏されました。ここではまず、生楽器を伴わない純粋な電子音楽について書いていきたいと思います。事前にアナウンスされていた「水曜日の別れ」「ヒュムネン」に加えて、開講式で「テレムジーク」、ステューデント・コンサートの余白の時間を利用して「少年の歌」がそれぞれ演奏されました。事前にアナウンスされていた「オクトフォニー」は電子音のみのヴァージョンではなく、トロンボーン、トランペット、シンセサイザーの各独奏者を伴った特別なヴァージョンで演奏されましたが、この演奏に関しては別の機会に書く予定です。
さて、まず「水曜日の別れ」から。
これは厳密には電子音楽というよりミュージック・コンクレートに分類すべき音楽ですが、この作品は「火曜日」の第2幕の電子音楽「オクトフォニー」で開発された特殊な配置にセットされた8組のスピーカーから再生されます。聴衆を取り囲むように配置された会場の四隅のスピーカーのそれぞれの上方にさらに4つのスピーカーが配置される、つまり8組のスピーカーがキューブ型に配置される(これがオクトフォニーという名称の由来となっています)のですが、このことによって音響が前後左右だけでなく上下に運動させることが可能になった訳です。
「水曜日の別れ」では子供達の遊ぶ声、鳥の鳴き声などの様々な日常的な物音が複雑に組み合わされますが、「オクトフォニー」や「コンタクテ」などのような緊張感に満ちた音楽とはキャラクターが全く異なり、ブライアン・イーノすら想起させる白昼夢的で叙情的な印象をもたらします。この作品は使用する音素材によって細かく11の部分に分ける事が出来ますが、それぞれの部分で使用するスピーカー群を変化させる事で音の立体感が突然変化する面白い効果を挙げていました。当然ながらこれは2チャンネルにミックスされたCDでは決して体験できません。左右だけでなく前後の動きも取り入れた4チャンネルの音響ですでに2チャンネルの音響とはまったく違う次元をもたらすのに、そこにさらに上下の広がりが加わるのです。右下方で水のぴちゃぴちゃした音が鳴り、左上方で鳥の鳴き声がするなどという技はオクトフォニーだからこそ可能なことなのです。もちろんこうした例は最も説明しやすい音響を取り上げたまでで、実際はもっと繊細かつ複雑な音響の合成が行われていて、半世紀間に渡るシュトックハウゼンの電子音楽制作における豊富な経験が存分に生かされた極めて洗練された極めて美しい響きを醸し出していました。
さて、昨年に引き続いて今年も運良く「少年の歌」を聴く事が出来ました。前回は会場のほぼ中央で聴いたのに対して、今回は左後方のスピーカーにかなり近い席で聴く事となりました。意図的にそこを選んだ訳でなく、単に狙っていた中央付近の席に座れなかっただけなのですが、これが思わぬ発見を生みました。4チャンネルのスピーカーから再生される音楽ならすべてのスピーカーからの音が等しく聴こえる中央付近の席がベスト・ポジションだと思いがちですが(実際シュトックハウゼンも客席中央にミキサーをセットしその場所でバランスを確認しています)、左後方のスピーカーの音がかなり強く聴こえる席で聴く「少年の歌」も予想以上に楽しめたのです。このスピーカーの音に比べて残り3つのスピーカーの音は当然ながらやや弱く、そして多少の距離感を伴って聴こえて来るのですが、これが独特の立体的な効果を生み、音楽がそれまでと違う生命を吹き込まれたかのように、非常に生き生きと感じられたのです。これは音響の空間移動の作曲上の計画がそれだけ緻密であったことを証明していますが、この作品はそうした空間移動の概念を積極的に作曲に取り入れたシュトックハウゼンにとって(そして音楽史上にも前例のない──厳密に言えばバンダを使ったり特定の教会の建築構造を利用して様々な方向から音響が聴こえる例は少なからずありますが、その音楽構造において「特殊な効果」以上の役割を果たしているものはないと言って良いと思います)はじめての作品である訳ですから、シュトックハウゼンの恐るべき才能をここにも感じる事が出来ます。
昨年のレポートにも書いたのですが、この作品は聴けば聴くほど、電子音楽ではなくセリーを使った合唱曲の名曲のように聴こえて来ます。始めの内は電子音という聴きなれない音によるショック感を主に感じていたのが、その未知の音に親しむにつれて音楽そのものの素晴らしさが姿をあらわにする感じです。音の奇妙さばかりを狙って音楽の内容がないような(ダジャレではありません。。)電子音楽が次々とその貧弱な正体をあらわす中、この作品は初演後半世紀を経てますます輝きを増すように感じられます。
前述の通り、開講式では「テレムジーク」が演奏されました。この作品は昨年も演奏されたのですが、こちらの都合で残念ながら聞き逃してしまったので、今回の再演は非常に嬉しかったです。
昨年聴いた人の話によると音響が必ずしもベストではなかったようで(いくらシュトックハウゼン監修と言えども予算やその他の事情で機材のセッティングに関してある程度の妥協をしなくてはならないこともあるのです。。。特に昨年は「金曜日」の特殊なスピーカー配置に莫大な予算が割かれたことが予想されます)、人によっては思ったほどすごい作品じゃなかった、という人もいたようですが(といってもかなり高い次元での不満です)、今回はその悪評(?)を覆す会心の出来だったようです。前回との比較は私には出来ませんが、今回聴いたその音響は間違いなく素晴らしかったです。この作品は一歩間違えると単に耳障りになるだけの高周波が多用されていますが、そうした音もきれいに再生されていましたし、もっとも印象的だったのが音響の「ぶよぶよ感」(笑)と呼びたくなる独特な立体感と音の肌触りです。「テレムジーク」特有のこの独特の音響感覚は、ひょっとすると、いつものケルンの電子音楽スタジオとは全く異なる、日本のNHKの電子音楽スタジオで制作されたというのも関係しているのかもしれません。
ところで、シュトックハウゼンはこの「テレムジーク」の5チャンネルのマスターテープを長らく入手する事が出来ませんでした。原因は制作に使用したレコーダーとテープが6チャンネルという特殊な仕様であったため、このレコーダーを使わないとこのテープを再生できないのにも関わらず、このレコーダーが故障のため使用できなかったからです。そのため長い間シュトックハウゼンはこの作品の上演を事前に作成していたステレオにミックスしたコピーを使う事で妥協する他なかったのです。しかし、1964年の初演からようやく30年たって、「テレムジーク」の制作にも協力した佐藤茂氏がこのレコーダーの廃棄寸前の段階でこれを修理し、一般的な8チャンネルのテープにコピーしてシュトックハウゼンのもとへ送付したことによってようやくオリジナルの5チャンネルの形で上演出来るようになったという感動的な話があります(実はこの少し前の1988年に一度5チャンネルのテープがNHKから送付されていたのですが、完全にレコーダーが修理出来ていない段階でコピーが行われたため音質がかなりひどくて全く使い物にならず、シュトックハウゼンが大きく落胆した事がCDの解説に記されています)。(5チャンネルのテープはシュトックハウゼンは受け取っていますが、最終的に音源に満足せず、ステレオ・ミックスを4チャンネルで再生(後方の2つのスピーカーからもステレオ・ミックスを再生)することで疑似的なマルチチャンネル環境を作っています。あまりに立体的な音響だったので、私がオリジナル5チャンネルでの上演だと勘違いしていました。2007年にステレオ・ミックスを元にした新たなマスターを作り、これが決定版となっています。)佐藤氏のこの尽力がなければ永遠にオリジナルの形で演奏できなかった訳ですから、彼はテレムジークの「命の恩人」と言ってもいいでしょう。
さて、今年のコンサートの一つの大きな目玉であった「ヒュムネン」についてです。間に休憩を挟むものの総演奏時間2時間という超大作にして、数多くのシュトックハウゼン作品の中でもトップクラスのクオリティを持つ大傑作の演奏ですから、当然多くの受講生がこの作品の演奏を楽しみにしていました。今年のキュルテンは例年の涼しい気候と異なり、かなり暑かったため演奏の行われた会場も文字通り熱気につつまれていましたが(汗)、この日の演奏会の雰囲気は明らかに他の日の演奏会の雰囲気とは異なっていたようにも感じました。かつて、ソリスト付きヴァージョンで何度も演奏に参加したヨハネス・フリッチュ氏の姿も客席に見られましたし、講習会の受講生以外の聴衆もかなり多かったようです。
この作品は一般的に世界のさまざまな国歌のコラージュと単純に受け止められがちですが、実際には国歌以外にも、短波ラジオのノイズ、電子的に合成された「抽象的な」音響、スタジオでの会話、日常生活で耳にするさまざまな「聴きなれた」音など、いわば「世界中のすべての音響」が等価に扱われています。そしてシュトックハウゼンはその雑多ともいえる膨大な種類の音響を、極めて複雑に互いに変容、変調させ4チャンネルの世界に再構成していますが、その音楽思考の論理的な厳密さと多様さはバッハ、ベートーヴェン、シェーンベルクらに代表される「ドイツ的」音楽観に基づくものと言えるかもしれません。また、古くから音楽などの芸術作品は自然界の模倣であるべきだという考えがありますが(メシアンの「鳥のカタログ」はその最も分かりやすい例です)、「ヒュムネン」はシュトックハウゼンによるそうした要請へのひとつの回答であると言えるかもしれません。
この作品の音楽史における重要さは例えばベートーヴェンの第九交響曲と同じであると言い切れるくらいですが、それは実際の4チャンネルの音響を聴いて改めてしみじみと実感しました。この作品の作曲技法は、12の半音階の音高を等価に扱ったシェーンベルクの12音技法をリズムや音の強度に応用したトータル・セリエリズムをさらに拡大し、地球上の全音響を等価に扱う「超セリー技法」であると表現したくなる誘惑にかられますが、ここでセリエリズムについて少し考えてみたいと思います。音楽の専門家、愛好家を問わず多くの人々の間で、シェーンベルクの12音技法に始まるセリー主義は作曲者から自由を奪い束縛する悪しき作曲技法と思われているきらいがあり、実際、特に1970年代以降の数多くの作曲者の作風(新ロマン主義、ミニマリズムなど)には少なからずこの「誤解されたセリー音楽」への反発の反映が感じられますが、少なくともシュトックハウゼンにとってのセリーは作曲者を縛るものではなく、音楽素材を自在に操るための便利な道具に過ぎないのです。それまで作曲者が直感的に感じていたものをセリー(列)という客観的なものに置き換えることによってあらゆる音楽素材をあらゆる方法で変容させる事ができますし、そもそもセリーの各要素として、たった一つの(点としての)音からより大きな音楽素材(例えば短いメロディーなど)などまでどんなものでも定義する事が可能ですし、定義の仕方そのものにもあらゆる選択肢が開かれている訳ですから、作曲者のイマジネーション次第でどんな音楽でも作曲する事が出来るのです。ある一つのセリーを作ってしまうとあとは自動機械のように曲が出来上がる、などというのも可能ですし、ブーレーズの「構造 I」では実際それに近い作曲手法がとられていますが(これがセリー技法の終着点と誤解している人も多いようです)、これはあくまでも自由と柔軟性に満ちたセリー技法のたった一つの側面に過ぎず、「ヒュムネン」のようにセリーの概念をかなり自由に扱った作品もセリー音楽の範疇にあるといえるのです。
作曲技法の話はこれくらいにしておいて、実際に聴いた感想を書いていきましょう。とはいえ、この長大な作品の何を書いていいのか考えると途方に暮れてしまいますが、とにかく何から何まで圧倒的であったということは断言出来ます。講習会のために渡独する前にこの大作のCDを何度も繰り返し聴いて細部まで覚えてしまう程になりましたが、それでも実際の4チャンネルの音響を聴くと、全く新しい曲のように新鮮に感じられました。言葉に窮するくらい素晴らしい音楽であったとしか書けないほどの大きな衝撃を受け、音楽の莫大な情報量のために何を書いて良いのか見当も付かない自分が情けなくなりますが、一つだけ書くとすればこの作品の後半にクラスター風の強烈な音響のグリッサンドが延々と繰り返される所がありますが、この一歩間違えるとただうるさくなるだけの音響が、実に美しかった事です。
同じ電子音楽でも、近年「耳痛系」という言葉が流通していることが象徴するように、聴覚に「物理的に」過激な刺激を与える程の大音量で超低周波や超高周波を極端に強調した音楽も一定の評価を得ていますが、そうした音楽の良し悪しは別として、シュトックハウゼンの電子音楽にはそのような要素はないし、そうした音響は好んでいないようです。シュトックハウゼンの作品は非常に大きなダイナミック・レンジを持っているのにもかかわらず、どんなに大音量であっても耳が痛くなったり、音楽を聴き終わった後一時的に難聴になったりするほどの音量にはならないのです(そうなる寸前のすれすれのラインを狙う事もありますが決して一線を超えません)。もし、シュトックハウゼンの(公認のマスタリングによる)CDを聴いてそういう印象を受けたとしたら、再生装置がシュトックハウゼンの求める音響をうまく再現できないために音が歪んでいるだけです。
どんなに大音量でも、やっと聴こえる程の微細な音でもシュトックハウゼンは自分の作曲したすべての音がクリアーに聴き取られる事を望んでいます。大音量の過激でノイジーな音響に身をまかせて一種のトランス状態に陥る、といった聴取方法はシュトックハウゼン作品の聴取の本来の姿ではないのです。
この大作の演奏が終わって、文字通り熱い拍手と熱狂が会場を包みましたが、やはりこの日の聴衆の感動の度合いはかなり高かったように感じます。電子音楽の上演ですから演奏者は誰もいません。客席は真っ暗になりシュトックハウゼンが客席中央のミキサーの前に座り、その横にいるブライアンがテープを再生させてスピーカーから音が流れているだけです。そして聴衆はその音に深い感銘を受けるのです。伝統的なコンサートの雰囲気と比較するとなんと奇妙な光景でしょう!しかし、そこで得られた感動は人生の中でそう何度も体験出来るものではないくらいに大きなものでした。
余談ですが、このコンサートの次の日に、あるドイツ人の受講生が嬉しそうな顔をして何かCDを持って歩いていました。私は彼にそのCDについて尋ねると、持っていたCDは「ヒュムネン」の4枚組のCDで、昨晩生まれて初めてその作品に接して大きな感銘を受けたから記念に今売店で買って来た、と言うのです。
わざわざ時間を割いてシュトックハウゼン講習会に来る程の人が「ヒュムネン」のような「古典的名作」をそれまでCDですら聴いた事がなかったというのにやや驚愕しつつも(でもそのような人にこそこうした体験をして欲しいといえます)、初めてその作品を聴いてしかもそれが作曲者の監修した万全の音響によるライヴだったことの彼の至福と感動は私も理解出来ましたし、彼の本当に嬉しそうな顔を見ているだけで、本当にこの作品に感動したのだな、ということが手に取るように感じる事ができ、私まで幸福な気分になりました。
ここ数年シュトックハウゼンはヨーロッパの各地でこの「ヒュムネン」を何度も上演していますが(来年2003年の1月にもケルンで演奏されますが、誰か日本にも呼んでくれないものでしょうか)、この作品が聴衆にもたらす至福をシュトックハウゼン自身も感じているのではないでしょうか?
特に近年、テロだの(シュトックハウゼンもあの事件に対する間接的な被害者と言えましょう)、それに対する報復だの、イラクを攻撃するだの、と平和希求のムードとは程遠い暗いムードが世界中を覆っていますが、シュトックハウゼン流の世界平和への願い(それが直接戦争を抑止するものではもちろんありえません)がこうした一連の上演につながっているのかもしれません。
オクトフォニー
「オクトフォニー」は『光』の「火曜日」の第2幕全体にわたって生演奏とともに再生される70分あまりの8チャンネルの電子音楽です。「火曜日」はミヒャエルとルツィファーの戦い(要は善と悪の戦いということです)の部分で、この第2幕ではミヒャエル率いるトランペット軍団とルツィファー率いるトロンボーン軍団が楽器を武器代わりに客席の通路も使って複雑に動きながら戦いを繰り広げるという内容です。その背景で流されるオクトフォニーは重厚な電子音のドローンにミサイルの発射音を模したような音響が次々と現れるような音響で、その華やかな音響はビル・ラズウェルがしばしばサンプリングしていることに象徴されるようにテクノやダブのミュージシャンらをも魅了しています。
当初アナウンスされていた「オクトフォニー」としての演奏形態であれば、この電子音楽のみが演奏されるということだったのですが、今回は3人の楽器奏者を伴う変則ヴァージョンでの上演となりました。他の「光」関連の作品と同じくこの「火曜日」にも部分的にこのオペラを独立した作品として演奏するための種々のヴァージョンがあります。今回はその内のオクトフォニーとソリストのための3つの作品が連続して演奏されました。
トロンボーン奏者が演奏する「侵略への合図」(このヴァージョンではトロンボーン奏者が電子音楽と戦うという設定になります)、トランペット奏者(4分音を演奏できるようにバルブに特別な改造をほどこしたフリューゲルホルンを演奏します)が演奏する「ピエタ」、シンセ奏者による「SYNTHI-FOU(「シンセ狂」とでも訳せばいいのでしょうか)」です。これら3つの作品はオクトフォニーのそれぞれ別の部分と共に演奏されるので、全体として各奏者が代わる代わる演奏するような格好になります。つまり、まず電子音のみによる部分があり、しばらくしてトロンボーン奏者が客席に登場、「侵略への合図」の3分の2くらいの部分を演奏した後退場し、ステージ上にトランペット奏者が現れ「ピエタ」を演奏します。この後再びトロンボーン奏者が客席に現れ「侵略への合図」の残りの部分を演奏します。その後ステージ上にシンセ奏者が現れ「SYNTHI-FOU」を演奏し全体を締めくくる、という構成です。つまり楽器奏者を大幅に減らした「火曜日」第2幕簡易ヴァージョンといった趣にアレンジされた訳ですが、「火曜日」の第2幕のど派手な音響が大好きな私にとっては非常にうれしい趣向でした。
まず「オクトフォニー」の立体的で迫力に満ちた音響に圧倒されましたが、そこから不意に客席へ登場したアンドリュー・ディグビーのトロンボーンの演奏はさらに圧巻でした。極めて複雑な電子音とのタイミングの関係(クリックの類は使いません)を把握し、多彩な奏法を駆使した複雑なパッセージを次から次へと繰り出し、さらにそれを楽器を色々な方向に向けながら客席の通路を動き回る(もちろんこれらの動きは記譜されています、そしてこの動きによって音楽の空間移動の効果がもたらされることは言うまでもありません)という、超絶技巧という言葉では言い表しきれない大きな負担を演奏者に課しますが(しかもこれらすべてを暗譜で演奏するのです!)それを自然体でこなしていたことは驚くべきことでした。
この驚嘆すべき演奏に引き続き、マルコ・ブラウが「ピエタ」を演奏しました。ところで、前回まで本講習会でトランペットの講師を勤め、シュトックハウゼンの息子でもあるマルクス・シュトックハウゼンは今回は不参加でした。理由はそれまで長年父の作品を演奏し続けることに精神的、肉体的に疲れてしまったこと(彼の功績とそこに至までの献身的な努力などを考えればそれは容易に理解できます)と、自分自身のジャズ奏者としての活動に専念したいという2つの理由で父の元から離れる決断をした、ということですが、正直この穴は大きかったです。マルコは「水曜日」の大曲にして超難曲である「ミヒャエリオン」の初演に参加するなど、シュトックハウゼンとの関わりも深いのですが、マルクスのために作曲されたこの「ピエタ」を「代わり」に演奏するというのはどう考えても荷が重かったとしかいえません。彼もテクニック的には素晴らしいものを持っているのですが、演奏に対する集中度、それによってもたらされる音楽の緊張感がマルクスと比べると圧倒的に不足しているのです。しかもこの「ピエタ」の電子音楽は「オクトフォニー」全曲の中で最も静的な部分でドローンに徹していますから、余計にソリストの音楽性が問われるのですが、直前まで演奏していたアンドリューの演奏がすばらしかったこともあり、かなり間の抜けた、より直接的な表現をすれば思わず寝てしまいそうになった演奏となってしまったのです。そもそも、マルクスのような天才プレーヤーと比較するのが間違っているのかもしれません。。。でも彼の演奏する「シリウス」や「上唇の踊り」を生で体験したからにはこの「ピエタ」も彼の演奏で聴きたかった、というのが正直な感想であり、彼の復帰を願わずにはいられません。
この演奏に引き続き、再びアンドリューが登場し演奏しますが、この部分の電子音楽はねじれるようで、かつ非常にきらびやかな音響と相変わら卓越した彼の演奏によって、「ピエタ」で失いかかった音楽の緊張感が、再び戻ってきました。
そしてステージ上に積み上げられた数々のシンセに照明が当たり、アントニオ・ペレス・アベリャンが演奏を始めます。まず始めはコラール風な音楽です。この部分は本来合唱とともに演奏されますが、それを想起させるようなシンセサイザーによる荘厳なオルガン風のハーモニーが、音楽を別の次元へと連れていきます(実際この部分は「彼の世」と名付けられています)
この「ウォーミング・アップ」を経ていよいよオクトフォニー全曲のクライマックスの「SYNTHI-FOU」へと突入します(実はこの推移部が非常にスリリングだったりします)。いや、正確には「クライマックス」というのはふさわしい表現ではありません。シュトックハウゼンはそのような古典的な形式感とは断絶したところで音楽を構成していますから。しかし、この「SYNTHI-FOU(=ピアノ曲XV)」を敢えてその古典的な形式感に基づく言葉で表現するなら、「始めから最後までクライマックス」とでもいえばいいのでしょうか、ほとんど休む暇なく音色を変化させ続けながら演奏し続ける(全曲で130近くの音色を使います)シンセパートの音響の多彩さと音楽の高揚感は下世話な表現をすれば「トリップ物」です。「火曜日」の初演ではやはりシュトックハウゼンの息子であるジーモンが演奏しましたが、今回の、数年来シュトックハウゼン作品のシンセ・パートの演奏だけでなく、シュトックハウゼン出版の浄書のアシスタントとしても活躍する多才なアントニオによる演奏は、多くの面でジーモンのそれとは異なっていました。とはいえ「ピエタ」のようにネガティヴな差異ではなく、非常にポジティヴなものです。二人の使っているシンセは違う機種ですから当然音色もちがいますし、譜面上で指定されている「インプロヴィゼーション・ウィンドウ」の部分も当然全く別の音楽になっています。この部分は演奏者が指定された拍数の中で自由に「即興演奏」(ただ純粋な即興ではなく事前に演奏内容を決定しておきます)するのですが、アントニオはエーファのフォルメルを露骨に演奏するなど、分かる人には爆笑物の音形を繰り出しサーヴィス精神満点でしたが、もちろん演奏自体も充実したものでした。
蛇足ですが小柄で眼鏡をかけたアントニオの風貌は「シンセ・オタク」のキャラにぴったり(実際そうなんでしょうけど)だったこともお伝えしておきます。
ただ一つ残念だったのはスピーカーの配置です。
前述の通りこの曲では8つのスピーカーをキューブ状に配置しますが、本来体育館であるこの演奏会場ではそれほど高くに上方のスピーカーを配置できないのです。シュトックハウゼンは上下のスピーカーの高さの差を14メートル取るように求めていますが、これはかなり大きな会場でないと無理です。そういうわけでオクトフォニーで重要な上下の音響の動きがそれほどクリアーには再現できていなかったのです。「水曜日の別れ」ではこれがうまくできていたのですけど、それはこの作品の音響が静的だったから、この欠点が露呈しなかったのだと思います。
「木曜日」抜粋
今年の講習会の最後のコンサートは「光」の「木曜日」からの抜粋でした。第1幕からの2つの場面、MONDEVA, EXAMENが続けて演奏され、休憩をはさんで最終場面VISIONが演奏され、「木曜日の別れ」で終わると言う内容です。
「木曜日」は舞台の歌手や楽器奏者で演奏される音楽に加えて聴衆を取り囲む8チャンネルのスピーカーから「見えない合唱」という電子音楽(とはいえ録音された素材は合唱です)が再生されますが、「木曜日」の全曲版CDではこの生演奏とテープの音響の重なりがうまく捉えられているとはとても言えません。そもそもこうしたコンセプトの音楽はステレオで収録する事は不可能なのです。
「火曜日」「水曜日」「金曜日」でもステージ上の生演奏と聴衆を取り囲むスピーカーから再生される電子音楽の同期が試みられていますが、「木曜日」ではそれらに比べて電子音楽はより弱く(場合によってはほとんど聞こえない)再生されるようになっているので、作曲者が意図した効果を体験するにはやはり生演奏に接するしかないのです。
MONDEVAはミヒャエル(テノール歌手)とエーファ(バセットホルン奏者)によるちょっとユーモラスで愛嬌に満ちたデュオです。この演奏会ではいつもはスージーが演奏するエーファのパートをドイツ在住の日本人曽田ルミさんが演奏しました。彼女はミラノでの「月曜日」全曲の初演への参加(同曲のCDでも演奏しています)を始めシュトックハウゼンからの信頼も篤く、このような大役も引き受けた訳ですが、彼女から無意識に溢れる日本人らしさがエーファのキャラクターと不思議にマッチしていてなかなか興味深かったです。ミヒャエル役のフベルト・マイヤーはMichaelion, Lichter-Wasser, Engel-Prozessionenの初演に参加し、来るDuefte-Zeichenの初演にも参加予定のすっかりシュトックハウゼンのお気に入りになってしまったテノール歌手ですが、すらっとしたルックスとリリックな声がとても印象的でミヒャエル役にもぴったりです。
この愛らしいデュエットにそのまま続いてExamenが始まります。
本来の編成から若干演奏者を減らした、トランペット、テノール、マイム、ピアノ、バセットホルンの編成による版で演奏されました。ここの場面でミヒャエルはトランペット、テノール、マイムという3つの様相で順に表れ最終的にこの3つの様相が同時に呈示されることになります。
テノールは先程と同じくフベルト・マイヤー、トランペットはウィリアム・フォアマン、マイムはカティンカが演じました。
カティンカがフルートだけでなくマイムも演奏するのは2000年の「祈り」でのパフォーマンスでよく知っていましたが、今回のマイムも非常に美しく彼女の多彩さに改めて驚きました。
トランペットのウィリアム・フォアマンはマルクス・シュトックハウゼンの後釜としてトランペットの講師として参加したのですが、正直いって彼の演奏には全く満足できませんでした。まず「見た目」がミヒャエル役にふさわしいすらっとした体形でないのです。楽器奏者が役者としてもステージ上で振る舞うシュトックハウゼン作品の演奏において、視覚的要素は決して軽んじる事が出来ません。見た目に関してのもう一つの不満は楽器の構え方です。彼はややベルを下に下げたようなスタイルで演奏するのですが、これもミヒャエルのキャラクターには相応しくありません。ちなみにマルクスは体に対してほぼ垂直になるように楽器を構えていましたが、やはりこうでなくては舞台映えしないと思いました。そして、一番の不満が演奏そのものです。こうした作品の演奏に対して天才プレーヤーであるマルクスと比べざるを得ないのは彼にとっては酷なのですが、そこを考慮してもミス・トーンがあまりにも多いのは頂けないし、フレージングもシャープさに欠き、彼には非常に申し訳ないですが、マルクスが演奏してくれればなぁ、としみじみと思わずにはいられませんでした。
この作品には「伴奏者」役として演じるピアニストの役割が非常に重要なのですが(実際この場面からピアノ曲XIIが派生しています)、怪我で演奏できなくなったエレン・コルヴァーの代役で急遽演奏する事になったフランク・グートシュミットが大健闘でした。彼は2001年の講習会でピアノ曲Xを暗譜で、しかも大変素晴らしい演奏で作曲者を含む多くの聴衆に感銘を与えましたが、ここでも短い準備期間にも関わらず非常に充実した演奏を行いました。
MONDEVAにしてもEXAMENにしても音楽の複雑さにも関わらず、音響が極めて美しく透明感に溢れている事に大きな感銘を受けましたが、この後にさらに大きな感動が待ち受けていました。
「木曜日」最終場面のVISIONはハモンドオルガン(今回はシンセサイザーが使用されました。演奏はアントニオ)による静的な和音の上にテノールとトランペット、そしてマイムが、聴き取れるギリギリの微弱な音量によって演奏する作品ですが、聴覚的要素と視覚的要素が密接に関連し、微細な音響の戯れに満ちあふれた作品の魅力はやはり生演奏に接しないと分かりません。この作品においては3人で1人であるミヒャエル(三位一体?)がほとんど同一のリズム(もちろん例のごとく細かくテンポが揺れ動きます)でしかもほとんどアイコンタクトなしで演奏をしますから(もちろん指揮者なしで)、リハーサルはかなり大変だったようですが本番では非常に充実した演奏を聴くことができました。
この神秘的な作品の演奏では照明もとても印象的でした。
この作品が終わると同時に「木曜日の別れ」の音楽が始まり、その演奏(ウィリアム・フォアマンの生演奏とテープに録音されたマルクスの演奏)に合わせて3人の演奏者が舞台下手へと極限のゆっくりさで退場していくのですが、そこに当てられた深いブルーの照明は得も言われぬ美しさでした。「木曜日の別れ」はミヒャエルのフォーミュラの断片を5人のトランペット奏者が同時に、しかし同期する事なくゆっくりと繰り返していく作品ですが、この作品の静的なテクスチュア、動いているのか動いていないのか区別のほとんどつかないゆっくりとした3人の動き、そして美しいブルーの照明の美しさが見事に調和して今回の講習会の最後を見事に彩っていました。
Aries, Libra, Solo
私が始めてシュトックハウゼン講習会に参加した2000年には大作にして傑作の「シリウス」が演奏されましたが、今回はその派生作品である「アリエス」と「リブラ」が演奏されました。
「シリウス」は天体の1年間の動きを二人の歌手(ソプラノ、バス)と二人の楽器奏者(トランペット、バス・クラリネット)が8チャンネルの電子音楽とともに演奏するものでしたが、「アリエス」はトランペットと電子音で春の部分、「リブラ」はバス・クラリネットで秋の部分をそれぞれ演奏します。
この8チャンネルの電子音楽は金属的な音色に統一されていますが、この作品の基本となるTierkreisの12の星座のメロディ(電子音楽の部分では基本的に4つの季節を代表する4つのメロディだけが使用されています)が空間移動を伴った極めて複雑な変容を多重的に行うため、演奏者が減った分電子音が聴き取りやすくなったこの派生ヴァージョンにはもとの「シリウス」とはまた違った聴く愉しみがあります。
久々にこの「シリウス」の電子音を生で聴きましたが、音のひとつひとつが宇宙の恒星のように感じられるキラキラした音の運動がとても素晴らしいです。そしてその電子音が生楽器と共演する訳ですが同じメロディ素材を複雑に絡み合わせる高度に作曲技法も聞き手を飽きさせません。
ところで、「リブラ」を演奏したのはスージー、「アリエス」を演奏したのはウィリアム・フォアマンでしたが、スージーの方は「シリウス」の初演時から演奏し続けている事もあり、当たり前のように高度な演奏を披露していました。
ウィリアム・フォアマンの方は「木曜日」のレポートで書いたのと同様にあまり満足できるものではありませんでした。この作品は電子音とのリズムの同期が非常に複雑で(しかもその同期を助けるクリックトラックは用意されていません)もともと困難なこの作品の演奏をさらに至難にしていますが、後半の一部分で電子音とのリズムの同期がうまくいかずつじつまの合わない部分がありました。
さらに彼を襲った不幸はシュトックハウゼン自身のミスです。この作品はトランペットだけの短い序奏的な部分があり、電子音がそこに加わってこの曲が始まる、という構成になっていますが、そのテープの開始のキューはシュトックハウゼンが出します。それを受けてアシスタントのブライアンがテープのスイッチを押すのですが、なぜか電子音が聞こえてきません。シュトックハウゼンはすぐに「何やってるんだ?!」という怒りの表情をブライアンに向けますがブライアンはシュトックハウゼンの座っているミキシング・ボードの方を指さします。シュトックハウゼンがそこを見ると、電子音を再生するチャンネルのフェーダーのレベルが0になっているのです。それではテープを再生しても音が出ないのは当然です。シュトックハウゼンはあわててフェーダーを上げますが時すでに遅し、電子音楽が間抜けなタイミングでなり始め、すぐに再生を中止します。その間事情も分からず突っ立っていたウィリアム・フォアマンの姿は無残でしたが、気を取り直してもう一度冒頭から演奏し直し今度は無事に電子音楽も再生、そのまま終わりまで演奏する事が出来ました。
この一連の出来事を私はシュトックハウゼンとブライアンのいるミキシングボードのすぐ横の席で見ていたのですが、「あの」シュトックハウゼンもつまらないミスをしてしまうし、そういった意味で、やっぱりこの人も「人間」なんだな、とつくづく思いました。
ウィリアム・フォアマンには苦言ばかり呈してしまったので、たまには褒めておきましょう(笑)
彼は「アリエス」や「木曜日」そして2つのアンサンブル作品の初演への参加に加えて「Solo」も演奏しました。
これは複雑なディレイ・システムを使い、演奏者自身がヴァージョンを作っていく作品ですが、この演奏においては彼は光っていたといえるでしょう。この作品の作曲当時(60年代)のアナログ・ディレイではシュトックハウゼンの意図した効果を得る事は極めて困難(初演時には7つのテープ・レコーダーを同期させました)なので、近年の演奏においてはコンピューターなどを使ってこのディレイ・システムを実現する事が多いようですが、ウィリアム・フォアマンもPowerBook G4でMAXを使ったオリジナルのソフトウェアを走らせる事でこの曲の複雑なディレイを制御していました。このシュトックハウゼン講習会に参加しているユーザーはなぜかマック・ユーザーが多いですが(シュトックハウゼン邸にあるパソコンもマックです)、ここにもまたマック、しかも私が使っているものと同機種、ということで親近感を持ちました。
それはともかく、このSoloはソリスト(楽器は任意)が演奏する音をディレイを使って複雑に組み合わせていく作品ですが、このディレイ音はマルチチャンネルで再生されるのです。ディレイを使った音楽はそのままだと非常に混沌としたサウンドになりがち(あるいはそうした効果を始めから狙っている)なのですが、そこはさすがシュトックハウゼン、非常に整理された音楽になるように巧みに作曲しています。そしてマルチチャンネルのスピーカーからディレイ音が再生されるのでひとつひとつのサウンドが立体的で聞き取り易くなっていますし、空間音楽としての楽しみも味わえます。ウィリアム・フォアマンは短いフレーズごとに何種類かのミュートを付け替え音色を変化させていましたが、これがこうした立体感をさらに強調する結果になっていました。
この作品はもともとは演奏者がフレーズ自体もリアルタイムで作り上げていく意図で作曲されましたが、いくつかの演奏にシュトックハウゼンは満足できず自分自身でこのフレーズを作曲し、ウィリアム・フォアマンもこの楽譜をつかっていますが、このヴァージョンは微分音やポルタメントなどを多用しているためトランペットではもともと演奏しにくいです。実際今回の演奏もやや音に不安定な感じがつきまとったり、ディレイ音の音質が(デジタル的に)やや粗い感じがしたりといくつか不満も残りましたが(ちなみにサウンドプロジェクションやディレイの操作はシュトックハウゼンではなく、ウィリアム・フォアマンが連れてきたアシスタントが行いました)、このような創造的なヴァージョンを聴くことが出来たのは貴重な経験でした。
ピアノ曲
シュトックハウゼン講習会では毎年必ず何曲かのピアノ曲が演奏されますが、今年は特に沢山のピアノ曲が演奏されました。
講師、受講生それぞれによってV, XI, XII, XIII, XIV, XV(オクトフォニーの一部として), XVI, XVIIが演奏されました(XI以降のすべてのピアノ曲を聴いた事になります)。XIIに関してはピアノソロとしてのヴァージョンを二人の演奏で、それに加え「木曜日」のEXAMENのパートとしてのヴァージョンも聴く事が出来ました。XVIはアントニオと彼の生徒による2種類の演奏を聴く事が出来ました。
ここではいくつかの特筆すべき演奏のみに絞って書きたいと思います。
といいつつ、今一つだと思った演奏から。Vを演奏した受講生はそれなりの演奏を聴かせてくれたのですが、演奏の際の体の動きがとても気になりました。あと、譜面を見ながら演奏していましたが、譜めくりの動きなども含めてかなり違和感を感じました。
現代曲の演奏において、譜面を見ながら演奏するのはむしろ当たり前で、後年のシュトックハウゼン作品の多くに指定されているように暗譜必須ではないのですが、ほとんどすべての講師、受講生が暗譜で、しかも曲によってはかなり複雑なジェスチャーを交えながら演奏しているこの講習会の状況の中では譜めくりをしながら演奏する、という状況がやたらと不自然に感じられるのです。シュトックハウゼンの作品のような集中的な聴取を必要とする作品においては下手をすると演奏者のちょっとした動きも音楽として感じられてしまうので、むしろジェスチャーなどの演劇的要素がスコアに指示されていない作品においての演奏時の立ち振る舞いが演奏の印象に大きく作用するのです。
そういう意味ではXIを演奏したベンジャミン・コブラーはそうした面での不満をほとんど感じませんでした。このXIは演奏時の不確定性を追及した作品としてよく知られています。巨大なスコアにいくつかの断片がばらばらに配置されていて、演奏者はその断片を目に留まった順に演奏していくという作品ですが、実際にはその断片の前後関係によってテンポや音域などをその都度変更していかなくてはならないため、近年シュトックハウゼンは、事前に通常の楽譜の形として確定された演奏用のヴァージョンを作っておいてそれを完全にさらって演奏会にかけるようなスタイルを推奨しています。彼もその例にならい、スコアをコピーして切り貼りした自分自身のヴァージョンを使っての演奏を聴かせてくれました。彼も(自分自身で作った)このスコアを譜面台にのせての演奏でしたが、無駄な動きが無いので譜面を見ながら演奏している、という違和感を感じさせる事がありませんでした。
そればかりか、演奏そのものが非常に卓越したものでした。この作品はどうしても構造の不確定さばかりが強調されるきらいがありますが、彼の演奏はこの作品の生み出す音響の美しさやきらびやかさ、しなやかなリズムなどが印象的でこの作品の音楽そのものの卓越した素晴らしさを再発見させてくれるものでした。
XII, XIII, XIVはどれも「光」の一場面として作曲されているものなので、演奏者にはピアノを演奏するだけでなく、特殊奏法なども含む多少の演劇的な素養も必要とされます(特にXIII)が、この講習会においてはこうしたことがもはや当たり前の事になってしまっている感じで、そうした表面的な事ではなく演奏のより本質的な部分で聴衆に評価されるような雰囲気になっています。もちろん「シュトックハウゼンのピアノ曲はXIまで」と思っているような古の世界に生きている人は皆無です。ある種の人にとってはショッキングなイヴェントの多い(ロケット発射とか)XIIIなども、聴衆はその作品の神秘性と、それを見事なまでにぶちこわすなんともお間抜けなギャグ的な要素のギャップの生み出す効果、そして一番肝心な音楽そのものの美しさをよく知っているので、どの人も変な先入観にとらわれず、素直にこの音楽を楽しんでいる事がよく分かります。
XV以降はシンセサイザーの使用を前提としているので「ピアノ曲」と訳するのはもはや不適切ですが、「鍵盤楽器曲」とか「シンセ曲」と訳すのもどうも据わりが悪いのであえて「ピアノ曲」のままで訳させてもらいますが、シンセの音色のプログラミングはもちろん、演奏者の創意が試されるような作曲の仕方がほどこされています。XVでは100種類以上の異なるシンセの音色を考えるだけでなく決められたリズムの枠内で(事前に考えられた)即興演奏をするパートがありますが(これは「オクトフォニー」のところでも述べました)、XVI、XVIIでは演奏者が自分自身のヴァージョンを作る、というところまで演奏者の自由度が増えています。
ただ、これは「何をやってもいい」という作曲上の責任を放棄してしまう類のものではなく、作曲者の意図する音楽を実現するための方法を演奏者が模索しなさい、というコンセプトに近いといえます。 XVIは「金曜日」の実に変態的な電子音楽からの抜粋に演奏者がシンセやピアノ、さらには演奏者自身の声なども使い注釈としての音を付け加えていくという作品ですが、鳴っている電子音のどれかの音とユニゾン、またはオクターヴの関係を保っている必要があります。いってみれば音の「塗り絵」といったところでしょうか。今回、リハーサルでこの作品を演奏した受講生のヴァージョンに対するシュトックハウゼンの注文を通じて分かった事は、このもとの電子音楽にももともと色が付いていて、その色を消さないようにさらに色を塗り重ねなくてはいけない、そしてその2つの色がどちらも識別できなくてはいけない、というスコアに書かれていない言外の希望がある、ということです。
音楽的にいえば、もとの電子音とそこに重ねたシンセなどの音の両方がどちらもクリアに分離して、かつ融合して聞こえなくてはならない、つまりそれを実現するための音色のプログラミング、音量のバランスに細心の注意を払わなくてはならないということです。さらに、その点をクリアーにした上で音楽的におもしろいものにしなくてはいけないのです。午前中のシュトックハウゼンによるリハーサルでいきなりこうした高度な注文をつけられた受講生は、午後の間必死になってヴァージョンを改訂し、夜の本番ではかなりの向上がみられた彼の演奏も、シュトックハウゼン自身がリハーサルを重ねて作り上げた、アントニオの演奏するヴァージョンにはやはり遠く及ばない、というある意味当たり前なことがこの二人の演奏を聴き比べる事によって再確認されました。
それにしても、普通のピアノ作品と比べて演奏者に求められている内容がなんと異なっている事でしょうか?当然、指がどれだけ速く回るか、などといった超絶技巧とは全く違ったものを要求している訳ですが、この作品はもともとポリーニが関係しているあるピアノ・コンクールの本選の課題曲として委嘱されたものです。確信犯なのかどうかは分かりませんが、このあたりの感覚にもいかにもシュトックハウゼンらしいところが見え隠れしていると思います。
Fremde Schönheit
スージーとカティンカという管楽器の名手を得たシュトックハウゼンは彼女たちのために多くの作品を作曲していますが、このコラボレーションにより微分音の演奏の領域が大きく開拓されました。特にそうした新しい可能性に目をつけて作曲したXi, Ypsilon, Aveの3曲はまとめてFremde Schönheitというタイトルの、一種の組曲として演奏されました。Xiはスージーによるバセットホルンによるヴァージョン、Ypsilonはカティンカによるフルート、Aveはスージーとカティンカのデュオで演奏されます。
まず、シュトックハウゼンがステージに上りFremde Schönheitのタイトルの意味を説明します。このタイトルを直訳すると「未知の美しさ」という感じになりますが、この「未知のもの」とは微分音のことを差しています。一般的な音律だと半音が一番狭い音程で、現代音楽においてはその半音をさらに2等分した4分音なども時折使われますが、シュトックハウゼンのこれらの作品においては全曲にわたって微分音がふんだんに使用されます。
この微分音の使用に当たってシュトックハウゼンはとても興味深い方法を用いています。シュトックハウゼンは作品の骨格となる音のみを記譜し、その間を微分音による疑似グリッサンドで埋めていくのですが、この微分音は演奏者自身が試行錯誤して指使いを探すように指定しています(スージーやカティンカの「発見した」こうした指使いのついた譜面も出版されています)。平均して半音を5つから6つの微分音で埋めて行きますがそのペースで例えば完全4度の音程を上行したりするのですから(しかもかなり速いテンポで)その音響の不思議さは実際に体験して頂くしかありません。そしてこれらの微分音は半音を不均等に分けるものであっても構わないので当然この疑似グリッサンドの幅は音ごとに微妙に異なり、それが楽器の持つ音色の特性と相まって、実に不思議で豊かな響きを醸し出します。
シュトックハウゼンが説明を終えるとステージが暗くなり、しばらくして突然暗闇にXの形をした電飾のようなものがピカーと浮かび上がります。これはXiの演奏のために特別に作ったコスチュームの一部で鳥の羽のようにこのX字の電飾のようなものが背中にくっついているのです。シュトックハウゼンのことならほとんど許せる私でもこの衣装には苦笑いを隠す事が出来ませんでした。このコスチュームはCDのジャケットにものっていて知っていたのですが、暗闇にピカーと浮かび上がるどこかのアヤシイお店の看板を彷彿とさせる電飾のようなようなものを背中にかついでいる様はお世辞にもクールとは思えませんでした。多少のミストーンはありつつも演奏はいつもながら素晴らしいし、音楽自体はこの世のものとは思えないくらいに神秘的で美しいものなんですけどねぇ。
さて、次はカティンカによるYpsilonです。今度はシャランシャランと鈴の音が聞こえます。これは衣装のあらゆるところに付けられたインディアン・ベルの音でカティンカが演奏しながら体を動かしながらこの楽器の音を鳴らすのですが、これも演奏する姿には滑稽なものをどうしても感じてしまいます。相当に難しい事をやってるんですけどね。
最後は二人によるAveです。
この作品は「月曜日」の一部を独立した作品として二人で演奏できるようにしたヴァージョンですが、ミラノのスカラ座での世界初演で使用された衣装を着用しての演奏でした。こちらの衣装は前の2作品と違って少なくとも私には非常に品のある衣装に感じられ、ちょっとメルヘンチックな雰囲気も大好きです。そしてカティンカとスージーの舞台映えは本当に良いです。特にスージーは最近、普段はおばあさんのような雰囲気すら醸し出していますが、メイクをして衣装を着けてステージに立つと、ミラノのスカラ座の初演時(15年前)と見た目の違いをほとんど感じさせないほどでした。
この作品は二人それぞれが複雑な微分音満載の至難なパッセージを演奏しながら華麗に動き回る、というとてつもない難曲ですがこの二人の演奏はそうしたことを全く感じさせず、この作品の持つ繊細な響きの美しさを味わいつつ楽しみながら演奏しているように感じました。
シュトックハウゼンというとどうしても「少年の歌」などに代表される電子音楽の領域ばかりが注目されがちですが、生楽器を使った作品にも電子音楽の傑作群にひけをとらない名曲がごろごろしていることも忘れて欲しくないな、と感じました。
Kinderfänger
今年のコンポジション・セミナーのテーマはKinderfängerでした。この作品は「光」の「月曜日」の最終場面を独立した作品として演奏できるようにしたものです。「光」からのこの手の作品は、単に場面を抜き出し楽器編成を縮小したものがほとんどなのですが、この作品に関しては少し違います。原曲で少年合唱が担当していたパートを第2シンセサイザーが受け持つのですが、そのまま楽器を変えるのでなく、時間的な構造のみ残してフレーズ自体は全く新しいものに作り替えました。
この作品はフルート独奏(前半でアルト・フルート、後半でピッコロを演奏)と、2台のシンセサイザー、1人の打楽器奏者と4チャンネルから再生されるテープという編成で演奏され、録音がシュトックハウゼン全集の第63巻に収録されています。10年以上前に録音された「月曜日」全曲盤のものと比べて、音質が信じがたいほどクリアーで美しく、演奏内容も極めて密度の高いものに仕上がっていて、この作品に対する印象が全く変わってしまいました。この録音は24チャンネルを使って行われましたが、シュトックハウゼン自身もこの録音の仕上がりに大満足らしく、24チャンネルの各チャンネルの音を取り出し解説していくという、大サービスのレクチャーでした。
この作品の基本的なアイデアは、サウンドシーンと呼ばれる4チャンネルのテープに録音された様々な日常の物音をフルートや打楽器奏者がまねをしたり変形したりしていく、というものです。これだけだと何でもないような感じもするのですが、そこはさすがシュトックハウゼン、安易な結果には決して陥っていません。
まずサウンドシーンに収められている素材の音ですが、様々な人の声、遊園地での乗り物の音、その辺で流れていそうな(少しエキゾティックな)音楽の断片、動物の鳴き声、ビリヤードの音、ラジオなどで使われそうなチープな効果音のような音響など多種多様な音響が現実には決してあり得ないような順序で組み合わされ、4チャンネルのスピーカーを駆使した様々な空間的な動きを伴って再生されます。まずこのサウンドシーンのみを取り出して聴く事が出来ましたが、意外で効果的な音響の連鎖が面白く、これだけでも十分楽しめるほどの楽しさでした。
シュトックハウゼンはこれらのサウンドシーンを聴音して五線譜に書き取りその楽譜をもとにフルートでの模倣の音形を作曲しました。フルート奏者はたんに楽器の音でこれらの音を模倣し変形するだけでなく、声や複雑な動きも使ってこれらの音に反応をします。発せられる言葉がしばしばユーモラスだったりしますが、技術的に凄まじく難しい事をしながらそれを感じさせないようにこのようなことを行うのは相当大変だと思います。
先程も延べた通り打楽器奏者も様々な打楽器を駆使してこれらのサウンドシーンに音の注釈を付けます。実はテープからもこのサウンドシーンを電子的に変形したもの(音高やテンポの変形)が再生され、フルート、打楽器、テープによるサウンドシーンへの注釈がしばしば重なって行われるため、音の連想の連鎖が複雑に絶え間なく起こっているような印象を与えます。
フルート奏者が何か演奏すると、2番シンセサイザー奏者が細かい音形でこれに答えますが、こちらは基本的にサウンドシーンとは関係のないフレーズを演奏します(原曲では少年合唱がフルート奏者の演奏した音形をそのまま真似していました)。このフレーズは「光」のもととなるスーパー・フォーミュラ(厳密には、さらにその骨格となる「核セリー」)をもとに作られていますが、実はフルート奏者の音形もスーパー・フォーミュラから作られています。つまりフルート奏者の奏する音形はスーパー・フォーミュラに関連していると同時にサウンドシーンの音響にも関連している、という極めて複雑な関係を持っている訳です。
スーパー・フォーミュラからどのように細かい音形を作っていくのか、ということに関してもシュトックハウゼンは説明をしましたが、ここで詳細は書けないものの、極めて自由で且つ論理的な展開をしています。
第1シンセサイザーはフルート奏者が奏する時に和声的な補助を加えますがこの和声付けも非常に論理的です。シュトックハウゼンにとって和声とは旋律を集約したものという考え方をしています(これは伝統的な調性音楽でも実はそうですし、シェーンベルクの12音技法も同じ考え方であるといえます)から、和声付けもこの基本にのっとっています。例えば1〜12とそれぞれ番号の振られたセリーでメロディーを作り、そこに和声を付ける場合、1の音には12、2、3を和声音としてあてがい、2の音には1、3、4、というように極めて経済的な方法で和声を作り上げます。これだけだとやや多彩さに欠けるので、1の音にはH音、2の音にはC音、3の音にはCis音というように半音階の音を付け加え、さらに低音部には全く違った起源のメロディー(例えばルツィファー・フォーミュラの一部の音形)を演奏させる事によって、単純な作業から、統一性がありしかも変化に満ちた和声進行を生み出す事に成功しています。
第1シンセサイザーはこの音形に加えさらにこの作品の和声的、時間的構造のおおもととなる、極端に拡大され、持続音としてしか聴き取れないスーパー・フォーミュラも演奏します。シュトックハウゼンは第1シンセサイザーのパートを2組のトラックに分けて録音しているので、この持続音にしか聞こえないスーパー・フォーミュラのトラックだけを取り出して聴く事ができました。この極端に拡大されたメロディーを認識するためには楽譜を見ながらかつかなり集中して聴く必要があります。もちろんもとのメロディーを頭の中で鳴らす事も出来なくてはなりません。
ほかのパートが重なってしまうと、この持続音からスーパー・フォーミュラをイメージする事はほとんど不可能ですが、この持続音の変化によって作品の大まかな和声的、時間的構造が規定される、と言う点で非常に重要なパートですし、一見軽やかに聞こえるこの作品も少し違う視点に耳を澄ますと、ほとんど静止したような持続音も同時に聴き取る事が出来る、つまり極小から極大の音楽事象が同時に起きている(そしてそれらにはフラクタルな関係性も存在している)ということを認識する事ができます。
1週間にわたりこの曲について詳細に解説し、楽譜上の全ての音符について説明したといっても過言ではないレクチャーでしたが、次回の講習会では「日曜日」の最終場面である「Hoch-Zeiten」のアナリーゼです。しかもこの作品はあまりにも複雑過ぎるので2年がかりでのアナリーゼになるそうです。ドイツ初演でその美しさと極度な複雑さを体験しているので、今からどのようなものになるのかとても楽しみです。
EUROPA-GRUSS, STOP und START
今年の講習会では、比較的大編成なアンサンブル作品が2曲演奏されました。こうしたアンサンブルの作品が演奏できるようになった背景として、受講生の充実が挙げられます。この講習会が始まって5回目になりますが、何度も繰り返し参加している受講生も増えてきて、シュトックハウゼン作品の正統的な演奏解釈も多くの受講生に浸透してきたので、受講生と講師の混成によるアンサンブルを組織して作品を演奏する事が可能になってきたのです。
今回演奏されたアンサンブル作品はEUROPA-GRUSSとSTOP und STARTの2曲ですが、どちらも複数の管楽器とシンセサイザーによる作品です。
EUROPA-GRUSSはシュトックハウゼン流のファンファーレの試みとでもいうような作品で、突き抜けるような管楽器とシンセサイザーの音色がとても美しいです。他の多くのシュトックハウゼン作品と同様に、この作品も1度聴いただけで作品の本当の面白さを理解できた訳ではありませんが、その後発売されたこの作品のCDを何度も聴く内にこの作品の素晴らしさを少しずつ感じる事が出来るようになりました。
この作品は「光」のスーパー・フォーミュラの「水曜日」の部分のエーファ・フォーミュラのパートと、ミヒャエル、ルツィファーの3つのフォーミュラの核セリーを組み合わせ10分以上に引き伸ばしたものをもとに作曲しているので、音楽素材としては持続音が中心となりますが、この事によって管楽器とシンセサイザーの組み合わさった絶妙な音色のハーモニーをじっくりと楽しむ事が出来ます。一見地味に感じられるこの持続音もよく耳を澄ますと常に音色やリズムなどの細かい変化による「ゆらぎ」が施されていて、音の内部へと聞き入れば聞き入るほど作品の深遠な魅力が聴いている人の前へと顕れていく仕掛けになっています。「しゃべくり漫才」などと揶揄される華麗なパッセージがパラパラ垂れ流しにされるある種の現代音楽にみられる空虚さとは対極にあたる、音楽の本質のみを五線紙に書き記した真摯な作品であると言えるでしょう。
音響的にはそれほど効果はありませんが、この曲の終わりの方で演奏者が楽器を演奏しながらぐるぐる回ったりするのはなかなか面白い効果があったことも一応補足しておきます。
引き続いてSTOP und STARTが演奏されました。この作品は60年代に作曲されたSTOPの改作版で、原曲では演奏者の裁量に委ねられていた部分を完全に確定された楽譜にしたものです。「ルフラン」も作曲者自身のリアリゼイションによる3種類の確定されたヴァージョンを3xRefrain 2000として発表し直したり、本来は演奏者がステージ上で「視線をさまよさせながら」ヴァージョンをリアルタイムで作っていくピアノ曲XIを、現在ではあらかじめ演奏用楽譜を作り上げ完全にさらいこんでから本番にかけることを推奨したりと、作品のもつ不確定性よりも演奏の完全性の方を優先する傾向がみられます。
この作品では数個の音のグループの不規則な(あるいは規則的な)リズムによる繰り返しや持続音の音色的、微分音的な変化が、リゲティの音楽を思い起こしたりもさせますが、こうしたイベントが、タイトルが示すように、様々なメロディーの断片(曲の最後の方には民謡風の旋律すら表れます)や特種奏法を駆使した多彩なノイズ的な音響によって中断される事により、音楽的にとても多彩なものとなっています。こうしたアイデアは「光」のそれぞれのフォルメルの特定の場所で様々なノイズや数を数えるイベントなど(有名なアイーンス、ツヴァーイ、という奴です)が挿入され、それ自身もメロディーの一部として機能する、という所に発展していくのですが、作曲時期の離れた2つの作品のそうした関連性に気付いた時、シュトックハウゼンの作曲に対する首尾一貫した姿勢というものを改めて感じずにはいられませんでした。
STOP und STARTに話を戻しますが、シンセサイザー奏者を5人使ったこのヴァージョンでは原曲以上の多彩な音色を生み出す事に成功しています。生楽器では難しい音色の微妙な変化もシンセサイザーならフィルターをフェーダーやペダルを使って調節することで簡単に且つ自由自在に実現できますから当然といえば当然なのですが、「いかにも電子楽器を使っています」的な空虚なテクノロジーのデモンストレーションとは無縁の卓越した楽器の扱いには毎度ながら感嘆させられます。
そして、これはEUROPA-GRUSSにも言える事なのですが、管楽器とシンセサイザーの音色が自然に、そして見事に溶け合っている、ということに感動しました。シュトックハウゼンにとってシンセサイザーは特殊でもなんでもない(むしろ不可欠な)楽器ですから、管楽器とシンセサイザーのアンサンブルは、生楽器と電子音の対立などといった図式ではなく、弦楽器と管楽器が一緒に演奏するのと同じ感覚でごく自然に組み合わされているので、両者が見事に一つのハーモニーへと統合され、得も言われぬ美しくてクリアーな音色を生み出しているのです。
シンセサイザーはしばしば生楽器の代用として使われる事もありますが、シュトックハウゼンはシンセサイザーの本来のコンセプトである音色の合成(シンセサイズ)に演奏者とともに積極的に関わる事により広大な音色のキャンパスを手に入れ、作曲の本質的な要素として取り入れられた音色作曲を実現するために今や必要不可欠な楽器として機能するようになっているのです。