シュトックハウゼン講習会レポート(2001年)

course 2001

Tierkreis in Kürten

 昨年2000年に引き続き、今年2001年もシュトックハウゼン講習会に参加しました。昨年度のレポートにも書いたようにこの講習会では講師により選出された受講生がシュトックハウゼン本人の指導のリハーサルを受け、コンサートで演奏することができますが、今年は私もこのコンサートに出演することができ、非常に有意義な講習会となりました。

 今回演奏したのが「ティアクライス」のヴォイス・ソロ版です。昨年度のレポートにも書いたように、この作品は演奏者が自分用のヴァージョンを自由に作ることが求められていて、私は昨年の講習会からニコラス・イシャーウッドと共にこのヴォイス・ソロ・ヴァージョンを作成していました。私は東京、ニコラスはパリに住んでいて、講習会が終わった後は当然簡単に会うことはできないので、私が自宅で録音して作ったCD-Rをパリに送り、それについてメールでやりとりをして、ヴァージョンを発展させ、その成果を再び録音して、というような作業を1年間に渡って続けてきました。
もちろん、お互いにほかのプロジェクトが色々とあって、中断していた時期もありますが、このシステムのお陰で、この1年間、私の頭の中には常に「ティアクライス」のことが頭の中にありました。
ニコラスが今回のヴァージョン作成にあたって私に何度も言い続けていたのが、それぞれの星座のメロディーを変型させる際に、それが常に星座のキャラクターを反映するように、ということでした。「ティアクライス」は12のそれぞれの星座(正確に言えば「12宮」)について12個のメロディーを作曲して、それぞれが12の違った中心音(演奏順にならべると1オクターヴの半音階になります)と12の違ったテンポ(もちろんテンポの半音階のすべてを網羅しています)を持つように構成していますが、これも12種類のキャラクターの違いを出すための工夫なので、ヴァージョンの作成にあたってもそうした作曲上の特徴を生かすようにというのが彼の意図でした。
シュトックハウゼンの指定は、各メロディーを3回か4回繰り返す、一度メインとなる言語、オリジナルのメロディーをオリジナルのテンポで歌えば、それ以外の繰り返しではどのようにメロディーを変形しても良い、ということで、これはスコア上の指定からの印象よりもはるかに大きな可能性があるのですが、例えばギドン・クレメルの演奏はほとんどそのままメロディーを繰り返しているだけで、この作品に秘められた可能性をほとんど何も使っていないということになります。
私は12個のメロディーの12個の特徴をハッキリと区別させるために、すべての繰り返しをそれぞれ違った方法で変形させました。
ピアノなどの和声楽器と一緒に演奏するのであれば楽器の組み合わせを変えるなど可能性はより大きいのですが、無伴奏ヴォイス・ソロという形態ではそもそも可能性が限られているので、このヴァリエーションを考えるという作業は困難を極めました。
メロディーの一部の音の省略、強調、テンポの変化、フェルマータ、様々な特殊唱法、体を使った補助的なノイズなど、ありとあらゆるテクニックやアイデアを尽くしてヴァージョンを発展させ続けていましたが、キュルテンに着いた時点(演奏会の1週間前)では、これらのすべてが完全に確定していた訳ではありませんでした。

 ニコラスは去年の時点から、今年のステューデント・コンサートに出ることになる、とはずっと言っていたのですが、これはもちろん公式の発言では全くない訳で、キュルテンに着いた後も、私が本当に演奏をすることになるのかどうかは半信半疑のままでした。日程などのことも含めて正式な知らせを受けたのが演奏の数日前、短期間で演奏を仕上げなくてはいけないという、極度の緊張を強いられる講習会の前半でした。
ヴァージョンはキュルテンに到着してからより一層作り直されることになります。
一番大きな変化は、補助的に(半音階の)12個のリンを使うというニコラスの提案です。もともとの発想は各曲の中心音をそれぞれのメロディーの前に鳴らすというチューニング的な発想でした。
半音階のリンは「祈り」で効果的に使われていますが、シュトックハウゼン自身がこの楽器を所有しているので、当初はシュトックハウゼンからスザンヌ(スージー)・スティーヴンス経由で使わせてもらえる予定だったのが、どういう訳かシュトックハウゼンから使用の許可が出ず(おそらく非常に貴重な楽器なので他人の手に渡したくなかったのでしょう)、あわててニコラスの知人の経営するケルンの楽器店からレンタルすることになり、結局楽器が到着したのが演奏会の前日でした。
このリンを、円形に並べた12個のテーブルの上に置き、曲ごとにこのテーブルの間を移動して作品全体で12個のテーブルをぐるっと一周するという大まかな構想(これはスコアの表紙のデザインも反映しています)はリンを使うことを決定した時点で固まっていましたが、これを実際の道具や楽器類すべてを使って練習することができたのが演奏会の前日という異常な状況だった訳です。
しかも、ニコラスという人はアイデアのデパートのような人で、リンが到着するや否や、どうせ使うのなら12個全部違うやり方で使ってみよう、と急に言い出して、これも(当然演奏会の前日に)二人で知恵を絞って12種類のリンの使い方を考えました。
メロディーの始まる前のリンの鳴らし方の変化(回数、リズム、マレットの使い方など)、ある曲ではマレットでリンを擦って持続音を出したり、リンを鳴らしながら演奏したり、ある曲のメロディーまるごとのリズムを(1つの)リンだけで演奏したりなど、極めて厳しい制約の中で、ともかく12種類の演奏法を数時間の間に決定しました。

 純粋な音楽的要素以外で重要だったのがジェスチャーです。特に「祈り」以降のシュトックハウゼン作品において、音楽的要素とジェスチャーの結びつきは非常に強くなり、「ティアクライス」のようなスコア上に何のジェスチャーやアクションの指定のない作品でも、シュトックハウゼンは何らかの動きを伴うことを明らかに好む傾向があるのです。
去年「祈り」の演奏で印象的なパフォーマンスを披露した舞踏家アラン・ルアフィ(モーリス・ベジャールとも深い関わりのある素晴らしいダンサーです)からジェスチャーに関して非常に貴重なアドヴァイスを頂くことも出来ました。基本的なアイデアとしてはそれぞれの星座に1つのシンボル的なジェスチャーを決めるというもので、キュルテンに行く前から自分なりにジェスチャーは考えていました。それをアランに一つずつ見てもらったのですが、アランがこういう方がいいんじゃない、といって即興的に作ったジェスチャーがあまりに素晴らしく、結局全体の3分の2はアランのアイデアをそのまま採用することにした程です。たった二本の腕から何故このように多才なジェスチャーができるのかと非常に驚きましたし、1時間位の短時間ながら一緒にアイデアを考えた体験は私にとって非常に貴重なものでした。アランによる「祈り」のレッスンも聴講したのですが、ジェスチャーを決める時、あるジェスチャーから違うジェスチャーへ動く時、これらのどの瞬間にも強いエネルギーのようなものが感じられ、これもとても勉強になりました。

 この講習会の講師はそれぞれ、トランペット、クラリネット、フルート、打楽器、ピアノ、シンセサイザーの各楽器奏者、二人の歌手(ソプラノ、バス)、ダンサーという幅広い分野から構成されていますが、これらの講師一人一人は技術的に優れているのはもちろんのこと、人間的にも素晴らしく、どの講師でも何かあれば、気楽にアドヴァイスを求めることができるフレンドリーな雰囲気があります。
そういう訳で、本来はニコラスのクラスで登録されていた私が、昨年はアネット・メリウェザー、今年はアラン・ルアフィに貴重なアドヴァイスを頂けた訳です。

 こうして、ぎりぎりの段階でヴァージョンを完成させ、ついに演奏会当日がやってきました。この講習会ではリハーサルは毎日午前10時から行われますが、私はリハーサルの順序が一番始めとなり、少し早めに会場へ入り楽器などのセッティングをし、落ち着く間もなくシュトックハウゼン本人によるリハーサルの開始時間を迎えました。
シュトックハウゼンのリハーサルは場合によっては非常に細かく、厳しいものになるという噂は知っていましたし、他の人のリハーサルでそれを実際にも見ていましたから、はじめの内は今まで体験したことのないくらい異常に緊張してしまいました。もちろん世界的な大作曲家と一緒に音楽を作るという緊張感もありましたし、自分のヴァージョンがシュトックハウゼンに果たして受け入れられるのだろうかという不安もありました。そして、そもそもそのヴァージョンが確定したのが前日だったので音楽的なことと様々なジェスチャーなど、もたもたせずにきちんと出来るのか(もちろん暗譜で演奏しました)という根本的な不安もあり、まさにその場を逃げ出したくなるような恐ろしい気持ちになりました。ニコラスは前日に、「明日のリハーサルではライオン(シュトックハウゼンは獅子座です)が日本食を食らうぞ」なんて冗談を言ってましたが、この時はまさにそういう状況でした。
そしてもう一つ大きなプレッシャーだったのが声楽ではあまり例のない無伴奏ソロという形態です。音程の面でかなりリスクがありますし、歌詞か何かを忘れて演奏が一瞬でも止まってしまった場合だれもフォローする人がいないので音楽自体が止まってしまう、そんな恐怖すら感じながらリハーサルはスタートしました。
リハーサルといっても、もう演奏会当日ですから、全体を止めずに通すだけです(いわゆるゲネプロ)。全体の演奏時間は約25分、始めの内はあまりの緊張のため演奏も多少ぎくしゃくしたものだったのですが、演奏が進むにつれ緊張も解けてきて、後半当たりではすっかりリラックスして演奏することが出来ました。
そして全体の演奏が終わり、シュトックハウゼンがどのようなことを言うか非常に不安だったのですが、驚くべきことにシュトックハウゼンは私のヴァージョンをとても気に入ってくれたのです。
音程やアーティキュレーションなど若干のダメ出しがあったものの、あとはもっとこういう風にやればヴァージョンが面白くなるよ、という提案(つまりその日の演奏会とは関係ない話)などで、その日の演奏会に関しては3ケ所程のヴァージョンの改訂を要求され(といっても最終的には私に任せるということだったのですが)、シュトックハウゼンのリハーサルの後にニコラスと一緒に代替案を考え、夜に備えました。

 シュトックハウゼンというとどうしても極度にシリアスな音楽の作曲家というイメージが一般的に持たれていますが、この「ティアクライス」は彼の作品の中でも最も親しみやすい作品の一つと言えます。12の星座のキャラクターを12のメロディーで表す、というコンセプトも単純明快なものですが、もともとがオルゴールのために作曲されたという経緯が音楽を可愛らしく親しみやすくした要因になっているのだと思います。
異様な緊張感につつまれたリハーサルで演奏しながら、前日のレッスンでニコラスが「リンはおもちゃだと思って楽しく遊べ」と言った言葉を思い出し、私のヴァージョンに対して一種の状況設定を試みました。
それは、リンを一種の魔法の道具と見立てるということです。リンを叩くと、それぞれに対応した星座のメロディーがオルゴールのように流れ、その星座のキャラクターがしばらくの間私自身に憑依(というとちょっと大袈裟ですが)してメロディーが終わると本来の私自身に戻る、という設定です。そのように作品をとらえ直すと演奏するのがものすごく楽しく感じられるようになってきました。

 ともかく、ある意味では演奏会の本番よりも精神的に過酷だったリハーサルも無事に終え、長い長い午後の待ち時間(演奏会は午後8時開演で私の出番は午後9時頃)を完全にリラックスした状態で過ごしましたが、その間に会った何人かの人からリハーサルに対しての好意的な感想を頂き、演奏自体にもだんだん自信が持てるようになってきました。

 そして、ついに演奏会の時間がやってきました。前半にはトランペット、ピアノ、フルートのそれぞれソロの演奏があり、休憩を挟んで私の出番だったのですが、その休憩時間にニコラスが楽屋にやって来て私の緊張を解いてくれました。
とは言えども実際に演奏となると、リハーサル程ではないもののやはり異様な緊張感に体が満たされるようになりました。
シュトックハウゼンが自分自身の作品を演奏する場合はほとんど例外無しにマイクを通して、彼がミキサーでヴォリュームや細かな音質をコントロールし、私の演奏でもワイヤレスマイクをつけて演奏した訳ですが、私が舞台に出て暫くするとモニタからかすかなサーというノイズが聞こえてきて(このノイズはお客さんには全く聞こえていません)、それがシュトックハウゼンの作品を演奏しているという妙な実感を起こさせました。
このかすかなノイズ自体は演奏を始めるとほとんど感知しなくなるのですが、次に実感したのがシュトックハウゼン自体の存在です。
一般的に演奏会本番時の客席は真っ暗なものなのですが、先にも述べた通りシュトックハウゼンが客席中央のミキサーに座っていてミキサーの部分だけ仄かに灯りがついているのでステージからみると暗闇の中にシュトックハウゼンの姿がおぼろげに見えるのです。
これはステージに立たないと絶対に見られない眺めなので貴重な体験をしたとも言えますが、暗闇に浮かぶシュトックハウゼンの姿を見た時にはさすがにぞくっとしました。
演奏を始めて最初の2、3分は若干の緊張感があったのですが、演奏を始めて少したった時点でで子供の笑い声が聞こえて来ました。それを聴いて、この「ティアクライス」は緊張させる音楽ではなく、楽しませる音楽なのだということを身をもって思い出し、そこから先は演奏している自分自身も心から楽しめる程くつろいでいる事に気が付きました。
リハーサルから本番の間に少し変えたところもあるので、その部分は当然ぶっつけ本番ということになりますが、短い準備期間の割にはまずまず納得できる演奏内容ではあったと我ながら思いました。
驚くべき出来事が起こったのは演奏後です。
エンディングの部分も当日のリハーサルから変更したぶっつけ本番の部分だったのですが、そこも無事にクリアーして演奏を終了しほっとしていると、拍手が鳴り始めました。始めの内はいわゆる一般的なカーテンコールの雰囲気だったのですが、なぜかいつまでたっても拍手が鳴り止まないのです。それどころかどんどん拍手が盛り上がってくるし、ブラヴォーなどとかなりの大声に叫んでいる人達までいるのです。
少なくとも私が自分の演奏で体験した中ではもっとも熱烈な反応だったのではないかと思います。嬉しい反面、この異様に盛り上がった雰囲気が自分では今一つ実感できないまま、楽屋に戻り、とにかく演奏は失敗しなかったんだ、ということだけを確信しました。

 演奏会全体も滞りなく終わり楽屋から出ると、いきなりマルクス(・シュトックハウゼン)やスージーが私のところにやって来て、素晴らしいとか、おめでとう、とかとにかく絶賛しまくっているのです。そうこうしていると、シュトックハウゼン自身もカティンカ(・パスフェーア)と一緒にやって来て、音程が多少悪い部分もあったけど、そのことはどうだっていいよ、という感じで、私の演奏とヴァージョンに対して、全く想定外の非常に高い評価を得る事が出来ました。
そのときになって始めて、私の演奏は作曲者自身を含めたすべての聴衆に、ものすごいインパクトを与えたのだ、ということに気が付きました。

121

 その次の日からは本当に大変でした。
とにかくありとあらゆる人から「昨晩の演奏は良かったよ」というような感じで話し掛けられたり握手を求められたりで、突然「局地的な」有名人になってしまったのです。

 そして、さらに驚くべき事が講習会の最終日に起こりました。
閉講式も終わり、打ち上げパーティーが始まるまで少し時間があるのでちょっとゆっくりとしていると、スージーがやって来て、シュトックハウゼンがあなたに話したい事があるので彼のところへ来てくれ、というのです。何だか事情が分からないままシュトックハウゼンの所へ行くと、改めてシュトックハウゼンは私に演奏についての感想を話し、私の星座が何座なのか、と尋ねて来たのです。双子座です、と答えると、すぐに(ティアクライスの)双子座のオルゴールを用意して演奏の記念品としてプレゼントするから打ち上げパーティーの会場で待つように、と話したのです。
このオルゴールは各星座につき40個だけ限定生産していて、しかもひとつ数万円するという非常に高価なものなのですが、このオルゴールをプレゼントすると言ってきたのです。
この心配りに非常に感激したのですが、さらに驚くべき事が起きました。
その後、打ち上げパーティーで談笑していると、シュトックハウゼンがオルゴールの箱を持って私の座っている席の方へ向かってきました。私はシュトックハウゼンのいる方へ行こうとしたのですが、シュトックハウゼンはそこにいろと合図しています。
言われるがままに自分の席で待っているとシュトックハウゼンが私のいるところまでわざわざやってきて、オルゴールの箱を開けてオルゴールに丁寧なメッセージとサインを書いて私に贈呈してくれたのです。
「ティアクライス」を演奏して、この曲のオリジナルともいえるオルゴールを作曲者からプレゼントされる、というこれ以上の栄誉がどこにあるでしょうか?
特に日本の一部の人からはシュトックハウゼンは誇大妄想だの、傲慢だのと悪口を言いたい放題言われていますが、ここまで心配りが出来て「粋な」センスも持ち合わせている人物がなぜこんなに悪く言われるのか不思議でなりませんでした。
もちろんもらった瞬間にオルゴールを鳴らしてみたのですが、スイスのルージュというオルゴールでは有名なメーカーの製品なので、本当に素晴らしい音色で改めて感激しました。
いろんな人に自慢しまくったのはもちろん言うまでもありません(笑)。
そして、もちろんこのオルゴールは私にとって一生の宝物となるでしょう。

 今回の演奏に関して、本当に色々な人に色々な面から協力していただきました。この場を借りて篤くお礼を申し上げます。

IMG_0681.JPG Stockhausen's sign on TIERKREIS music box, which is the gift from Stockhausen for my performance of TIERKREIS 2001.


シュトックハウゼン講習会の講師紹介

 シュトックハウゼン講習会では、シュトックハウゼン自身とともに彼の作品を数多く演奏し、それぞれの作品に精通した演奏家が講師として参加し、演奏家として登録されている受講生にレッスンをしたり、演奏会で演奏をしたりします。

 シュトックハウゼンの近年録音されたCDを細かくチェックしている人なら、これらの講師の名前はお馴染みの人ばかりですが、そうでない人にとっては必ずしも聞き慣れた名前ばかりではないので、ここで簡単に紹介しておきましょう。

アンドレアス・ベトガー Andreas Boettger(打楽器)

 「月曜日」や「火曜日」の初演に参加。「コンタクテ」や「ツィクルス」といった古典的な作品はもちろん、近作のアンサンブル用の作品で打楽器を要する作品では常に彼が演奏している。打楽器奏者としての素晴らしいスキルに似合わないちょっとまぬけな雰囲気が魅力。

エレン・コルヴァー Ellen Corver(ピアノ)

 アコースティック・ピアノのための作品の演奏においてはシュトックハウゼンから現在もっとも厚い信頼を受けている。ピアノ曲I〜XIVのすべての作品の演奏法に関してシュトックハウゼン自身から指導を受けていて、その演奏はStockhausen Verlagから3枚組のCDとして発売されている(全集56)。このCDは演奏だけでなく録音の素晴らしさも特筆すべき素場らしい内容。Sepp Grotenhuisというピアニストと共に「マントラ」をシュトックハウゼンのサウンド・プロジェクションの下に録音したCDがTMDというレーベルから発売されているが、こちらも素晴らしい内容。実際に見ると、CDのブックレットの写真よりは少しふっくらしているかも。

ニコラス・イシャーウッド Nicholas Isherwood(バス)

 シュトックハウゼンが現在かかわりを持っている歌手の中では最も信頼を受けているバス歌手。「月曜日」「火曜日」「金曜日」におけるルツィファー役はもちろん、「木曜日」や「土曜日」からの幾つかの作品や「シリウス」のバス・パートもシュトックハウゼンの監修のもとで演奏している。「私は空を散歩する」の熱演を収めた録音がmodeレーベルから発売されているほか、ケント・ナガノ指揮によるヴァレーズ作品集(ERATO)などシュトックハウゼン以外の現代音楽の分野でも数多くの録音があり、日本でもこれらのCDは比較的容易に手に入れる事ができる。細川俊夫氏のオペラ「リアの物語」に出演するために数年前に来日したこともあり、日本の文化にもそれなりの知識がある。美女に弱いのが唯一の弱点か・・・

アラン・ルアフィ Alain Louafi(ダンサー)

 モーリス・ベジャールとの関わりも深い卓越した舞踏家。世界中の様々な舞踏やジェスチャーなどに造詣が深い。シュトックハウゼンとの関係は「祈り」の初演以来ずっと続いているが、「木曜日」や「月曜日」でも彼を想定したと思われるパートがあり、事実彼がその部分を演じている。ジェスチャーと音楽のセリエルな結合という前人未到の領域をシュトックハウゼンとともに開拓した成果は非常に重要である。なにげに冗談を言っている。

カティンカ・パスフェーア Kathinka Pasveer(フルート)

 クラリネット奏者のスザンヌ・スティーヴンスと共にシュトックハウゼンの公私双方に渡る重要なパートナー。シュトックハウゼンとの関係は「土曜日」の初演以来であるが、「光」の着想した時には全く想定されていなかったフルートのパートがこの時期以来突如重要になってきて「月曜日」「金曜日」の多くの部分や数えきれない程沢山の小品が彼女を想定して作曲されている。フルート奏者として素晴らしいだけでなく、「祈り」のマイムをアラン・ルアフィと共に演じたり、彼女の歌声が「火曜日」「水曜日」「金曜日」の電子音楽で使われるなど、多方面にその才能を発揮している。Stockhausen Verlagの細々とした事務仕事も演奏活動の合間にこなしているようで、本当に働き者である。演奏中に聞く事にできる彼女の「かわいい」声とは裏腹に普段の喋り声は意外と低く、ちゃきちゃきとした感じ。

アントニオ・ペレス・アベリャン Antonio Perez Abellan(シンセサイザー)

 ジーモン・シュトックハウゼンの後継であるが、独自の個性も持ったシンセサイザー奏者。様々なアンサンブル作品のシンセパートはもちろん、「コンタクテ」や「ルツィファーの夢」でアコースティック・ピアノの素晴らしい演奏を披露することもあるそうだ(私は未聴)。シンセサイザーがメインとなる近作としてはピアノ曲XVI, XVIIがあるが、この双方の作品はシュトックハウゼン講習会で彼によって初演された。シュトックハウゼンとの協力関係は10年に満たないがもはや彼の存在は不可欠なものとなっている。見た目の通り結構気さくな感じ。

スザンヌ・スティーヴンス Suzanne Stephens(クラリネット)

 シュトックハウゼンとの協力関係も4半世紀に渡っている極めて重要なパートナー。彼女のために40曲以上ものクラリネット、バス・クラリネット、バセット・ホルンのための作品が作曲されていて、もちろん「光」の中のすべてのバセット・ホルンのパートは彼女が演奏することを想定して作曲されている。とりわけ「月曜日」「木曜日」「金曜日」ではバセット・ホルンに大きな役割が与えられている。単に作曲されたものを演奏するという関係ではなく、微分音や特殊奏法の開発に関してシュトックハウゼンへ刺激的なフィードバックを返すなど実に創造的な協力関係となっている。オペラ歌手やダンサーのように動きながら演奏する、というスタイルは彼女の存在と協力が不可欠であったし、「光」において楽器奏者がオペラの登場人物として演奏しながら演じるスタイルももちろんここからの発展である、という意味でも彼女の業績は計り知れない。非常に穏やかな性格で、喋り方も非常におっとりとしている。

マルクス・シュトックハウゼン Markus Stockhausen(トランペット)

 シュトックハウゼンの沢山の子供の中でも特に才能に満ちあふれた息子。「作曲家シュトックハウゼンの息子の」という肩書きはもはや不要であり、ジャズ・トランペッターとしての活動も有名である(ECMレーベルなどからCDも発売されている)。シュトックハウゼンの作品では「シリウス」「木曜日」「土曜日」「火曜日」「友情に(トランペット版)」などの初演を行っているが、どれも超絶技巧を要する難曲であり、彼無しにはこれらの名曲は生まれ得なかったであろう。特に「木曜日」の第2幕「ミヒャエルの旅」は実質的にトランペット協奏曲となっていると共に、このシーンの主人公としてミヒャエルを演じながらトランペットを演奏する(ちなみにこの幕では歌手は一人も登場しない)。演奏中の集中力には物凄い気迫を感じるが、基本的な性格はとても明るくめちゃめちゃフレンドリー。

アンジェラ・トゥンスタル Angela Tunstall(ソプラノ)

 シュトックハウゼンとの関わりは1989年に「モメンテ」を演奏したことに始まる。この後も何度かこの大作をシュトックハウゼンの指揮の下で歌っているが、その成果を評価され「金曜日」の初演でエーファ役を歌う。彼女だけはステージから降りた時のキャラクターを知らないのだが、多分舞台上での印象と同じく、清楚な人なのだと思う。

 今年度の講師は以上の9人と作曲講座を担当するシュトックハウゼン自身の計10人となるのですが、この他にもスタッフとして多くの人が関わっているので、この中でもっとも重要だと思われる人物を簡単に紹介しましょう。

ブライアン・ウォルフ Brian Wolf

 肩書きはサウンド・プロジェクション・アシスタント。シュトックハウゼンは客席中央のミキサーの前に座って最終的なサウンドの調整をしているが、ブライアンは常にその左後ろに控えていて、シュトックハウゼンの補佐的な作業を行っている。今年は3回のスチューデント・コンサートの内の2回のサウンド・プロジェクションも任された。数年前にマウリツィオ・ポリーニが来日してシュトックハウゼン・プロをやった時に「少年の歌」と「コンタクテ」も演奏されたが、その時のサウンド・プロジェクションはブライアンがやったとのこと。

デットロフ・シュヴェールトフェーガー Dettloff Schwerdtfeger

 シュトックハウゼン講習会の運営や事務的な面などに関する責任者。といっても結構若々しい青年で、いかつい名前の印象とはまるっきり正反対のむしろ気弱そうに見えるキャラクターがなかなか親しみやすい。とはいえ、ほとんど献身的と言える彼の働きぶりには本当に頭が下がるし(リリー、サンドラという二人の女性スタッフと協力して、車での受講生のホテルへの送り迎えまでやっている)、特に私のスチューデント・コンサートにおける楽器の調達に関しては多忙の中本当にお世話になった。

 と、こういった感じで様々な講師、スタッフの協力によってこの講習会が成り立っている訳ですが、会場の提供や食事の面での地元の方々の尽力も非常に大きく、これらの積み重ねが講習会の高度で専門的な内容にもかかわらず親密な雰囲気を失わない秘訣になっているのだと思います。


土曜日

 今回のシュトックハウゼン講習会の講師によるコンサートは基本的に「光」からの抜粋の作品が演奏されました。唯一「光」関連でなかった演奏会のプログラムは、「ツィクルス」「ピアノ曲X」「テレムジーク」という古典的な名曲から構成されていましたが、こちらの方はスチューデント・コンサートの準備の都合で私は聴くことが出来ませんでした。
それ以外のコンサートは「金曜日」全曲の準コンサート版、それからそれぞれ「月曜日」「木曜日」「土曜日」の抜粋から構成された3つのプログラムという構成でした。
そしてコンポジション・セミナーは「日曜日」の中で唯一発表されている作品「リヒター・ヴァッサー」がテーマでしたのでまさに「光」漬けの講習会だったと言ってもいいかもしれません。
「光」は「月曜日」「火曜日」「水曜日」「木曜日」「金曜日」「土曜日」「日曜日」という7つのオペラから成り、それぞれのオペラを1晩ずつ演奏していくので全曲の演奏に1週間かかるという超大作(現在「日曜日」のみ未完成)ですが、それぞれのオペラの各場面は独立した作品として単独でも演奏可能であり、「コンサート」という基本的なフォーマットの中で簡単な衣装、照明、動きなどを伴った準コンサート形式で演奏されました。

 ここではまず「土曜日」の抜粋を中心としたコンサートについて書きたいと思います。
このコンサートは基本的に「土曜日」の抜粋から成りますが一曲だけ例外があります。それは「SUKAT」という「火曜日」からの派生曲です。つまりこれは「光」の一部分ではなく「火曜日」の音楽素材を使ってスージーとカティンカのデュオとして作曲された全く独立した作品なのです。
この作品は青と緑という2つの原色を使った強烈な照明とコスチューム(例外的にカティンカの片足だけ赤、これはこの曲の素材になった「火曜日」を支配する色)で独特の激しい動きを伴って演奏されますが、一番物凄かったのが音楽それ自身です。シュトックハウゼンは「月曜日」の作曲当時以来、スージーやカティンカと協力してフルートやバセットホルンにおける微分音の演奏について研究していますが(半音を12分割する微分音のフィンガリングを編み出しました)、この「SUKAT」はその研究の成果が遺憾なく発揮された恐るべき作品です。この曲はこのコンサートが世界初演ながらCDには録音されていたので、この曲について知っていたつもりなのに、実際に聴くまでここまで凄まじい作品だとは気が付きませんでした。のっけから微分音、特殊奏法が目まぐるしく連続し、強烈な照明、衣装、動きと組み合わさることにより恐るべき演奏効果を発揮していました。後半にはこれらの至難なパッセージを演奏しながら同時に声も出すというほとんど曲芸的なパッセージがあったりと、8分弱の短い曲ながら今回の講習会の中でも「金曜日」に次ぐ大きなインパクトを私に与えました。

 さてこの日のコンサートの始めの曲に戻りましょう。
始めに「土曜日」の第1場でもある「ピアノ曲XIII」がエレン・コルヴァーによって演奏されました(実際のオペラではピアノ独奏にバス歌手が加わり「ルツィファーの夢」と題されます)。この作品はピアノ作品ながら内部奏法などの特殊奏法、補助的な打楽器、ピアノを演奏しながら声を出す、若干の演劇的要素などが楽譜に記譜されている非常な難曲です。
かなり絞った照明の舞台に黒い衣装を着たエレンがゆっくりと舞台に現れ低音の短9度という鋭い和音から演奏は始まりました。非常におどろおどろしい音楽でピアノのボディーをノックしたり弦を引っ掻いたりする様々な特殊奏法がこの雰囲気を助長しますが、それらのすべてが一体感を持って美しいサウンドを生み出しているのが印象的でした。「アイン、ツヴァイ…」などと数を数えるイヴェントも含めてすべての特殊奏法は「光」全曲の構想の原点である「スーバー・フォルメル」という3声のメロディーの一部であり、適切に配置されたマイクを使って通常のピアノの音と適切なバランスを保つことによりこれらの一体感が生み出されているのです。エレンは弦を引っ掻くために椅子から立ち上がったり鍵盤の両側に配置されたインディアン・ベルを鳴らしたり、鍵盤の上に片足を乗せてクラスターを演奏したりと視覚的にも楽しめるのですが、一番インパクトが強かったのが曲のクライマックスでピアノの奥にあらかじめ用意されていたおもちゃのロケットを発射させるところでしょう。「ドライツェーーン」と叫びながら5発のおもちゃのロケットを発射させるのですが、ロケットが発射する一瞬の間だけ照明がぼわっと明るくなってまたすぐ暗くなるというのが5回繰り返されるのですがこれがもともと馬鹿馬鹿しいイヴェントをさらにユーモラスなものにしていました。全体的な雰囲気としては非常に陰鬱で魔術的な(そして演奏至難な)この曲に突然こうした親父ギャグとしか言い様のない要素が忍び込むという物凄いギャップは、特に近年のシュトックハウゼンの作品の醍醐味といえるでしょう。シュトックハウゼンの近作には必ずといって良い程こうしたギャグ的な挿入が1〜数カ所あり、もちろん本人も意識してやっているのですが、スノッブな批評家や「神秘主義で頭がおかしくなって」などとシュトックハウゼンを中傷する輩をこれらのギャグによって文字どおり笑い飛ばしているかの様です。

 休憩をはさんで「小鼻の踊り」と「上唇の踊り」という「土曜日」の第3場からの抜粋が先述した「SUKAT」を挟んで演奏されました。
小鼻の踊り」は打楽器とシンセサイザーのデュオで、原曲のオーケストラのパートをアレンジしたシンセのパートに打楽器奏者のソロが加わるという構成になっていますが、この打楽器奏者は突然変異したドラムセットとしかいいようのない非常に奇妙なヴィジュアルの打楽器群を演奏します。アンドレアスはこの変則的で特殊な楽器も含んだドラムセットを物凄いグルーヴ感で演奏しながら同時に歌まで歌います。その歌がなんとも下手くそでたまらないのですが(笑)、とにかく打楽器のパートが異常に複雑なのでそのお世辞にもうまいとは言えない歌声が何故か緊迫感を持っていて非常に楽しめました。こればかりは実際に見て頂かないと分からないのですが、要所要所でバチをもった両手を上にかざして(ロック系のドラマーがいかにもやりそうな)決め(?)のポーズを取るので余計に演奏が大変になるのですが、その必然性のなさがこれまた大受けでした。
とにかくこの曲はヴィジュアル的には最初から最後までギャグとしかいいようのない感じなのですが、音楽だけ取り出すと非常に緊張感溢れる素晴らしい音楽なのです。この一見相反する要素をいとも簡単に組み合わせてしまうシュトックハウゼンの余裕には完敗でした。

 この日の最後は「上唇の踊り」でした。
この曲はシンセと二人の打楽器奏者がオーケストラ・パートを奏するのに合わせてトランペット・ソロが加わる曲ですが、この曲におけるマルクスの演奏は多少のミストーンにも関わらず壮絶としか表現できない非常に集中度の高い演奏でした。
この曲のトランペット・パートは非常に細かいパッセージと連続する最高音域が演奏者にとっては非常に過酷な作品で、小トランペット協奏曲と呼んでも良いくらいです。実際ソロ以外の楽器が休みになる長いカデンツァ風の部分もあり、ここでは床に座ったり寝転がったりして演奏することが要求されます。こうした至難なパッセージの連続にも関わらずほとんど休みのスペースがないため演奏者には人並み外れたスタミナが要求されるのですが、マルクスは強靱な精神力とテクニックでこれらの至難なパッセージを輝かしい音色で演奏し続け、カデンツァのクライマックスでの最高音も完璧に演奏し、非常に濃密だったこの日のプログラムの素晴らしい最後を飾りました。


木曜日

 「光」からの「木曜日」からの楽曲によるコンサートでは「フォルメルと入場」「TANZE LUZEFA」「使命と昇天」「見えない合唱」の4曲が演奏されました。この日はこのプログラムの前に「ツィクルス」「ピアノ曲X」「テレムジーク」といった「古典的な」作品によるプログラムも演奏されたのですが、こちらはステューデント・コンサートのレッスンが長引いたために残念ながら聴くことができませんでした。
「木曜日」からのプログラムも「TANZE LUZEFA」の一曲は同様の理由で聴くことができませんでした。

 「フォルメルと入場」はトランペット・ソロによるごく短い作品でマルクスが演奏しましたが、つまらないミスが目立ちマルクスにしては少し不調な感じがしました。彼の恐るべきテクニックと音楽性を知っているだけに少し残念。
使命と昇天」は「木曜日」第2幕「ミヒャエルの旅」(楽器編成はオーケストラと数人のソリスト)の後半の部分をトランペットとバセットホルンの二重奏で演奏できるように編集された作品で、トランペットは同じくマルクス、バセットホルンはスージーではなく、受講生のバーバラ・ブアマン(昨年のステューデント・コンサートで「ハルレキン」を演奏し高い評価を受けました)が急遽担当することになりました。こうした措置は若い演奏者にもシュトックハウゼン作品の演奏の伝統を新しい世代に伝えていこうとする一つの試みなのでしょう。
この作品では二人の楽器奏者がオペラ歌手の様に演奏しながら演技を行います。トランペット奏者がミヒャエル、バセットホルン奏者がエーファとしてステージ上で「演じる」訳ですが、音楽的対話が演技としての対話に対応することによって、音楽と(演奏者の)動きが巧みに統一されているのです。どちらの奏者も、ものすごい超絶技巧を使った至難なパッセージが連続する訳ではないので、表面的なテクスチュアはどちらかというと一見シンプルなのですが、奏法の楽器の特殊奏法や空間的配置よる音色の計算された変化、ミヒャエルとエーファの両フォルメルの交替や交錯など、洗練された作曲技巧による音の織物を堪能できる美しい作品です。
特に二人の奏者が演奏しながら一緒に舞台裏へ退場していったあとの螺旋を描くように上昇していくように聞こえる音響効果や照明の効果は非常に絶妙で神秘的でした。
少し話は変わりますが、今年からシュトックハウゼン関連のヴィデオを借りて自由に見ることができるシステムができ、昨年BBCが制作したシュトックハウゼンの番組のヴィデオを見ました。この中でロイヤル・オペラで上演された「木曜日」第2幕からの抜粋の映像が使われていたのですが、音楽的にももともととても面白いこの部分が演技を伴って演奏されると、さらに生気を持った魅力的になっていました。是非とも実演を見てみたいものです。

 休憩を挟んで、最後に「見えない合唱」が演奏されました。
この作品は「木曜日」の第1幕と第3幕で演奏者によって実際に演奏される音楽と同時に、テープによって再生される電子音楽のパートを、独立した作品として演奏するために編集した版です。「電子音楽」と言ってもタイトルから分かる通り、使われている音源は基本的に合唱の録音のみ(一部でバセットホルンの短いパッセージの録音も挿入されている)で、これらの録音が電子的に変調されている訳でもないのですが、16声のパートを聴衆を取り囲むようにミックスしたり(実際は8チャンネルのスピーカーで演奏されます)、非常に細かい母音、音域、テクスチュアの操作、効果的な特殊唱法の使用(例えば全員がバラバラのリズムで舌鼓を打って水がピチャピチャ鳴っているような音響を生み出すなど)などによって、人間の声から電子音楽に匹敵する多彩な音色を引き出しているのです。
この作品は(ステレオにミックスされた)CDで聴く時にはこうした複雑で多彩な響きをクリアーに再現することがほとんど不可能なのですが、聴衆を取り囲むような8チャンネルのスピーカーで聴くことによってはじめて、作曲されたこれらの微細な効果を十分に味わうことができました。
母音の変化がいわゆるフィルターの役割を果たして音色の明暗を生み出し(これは「シュティムング」以来の作曲技法です)、その変化が異なる方向から異なるテンポで生み出されると、えも言われぬ立体感が生み出され、体中を優しくマッサージされているような感覚になりました。CDではこうした本来の素晴らしさをなかなか実感できないし、かくいう私も実演に接してこの作品の神髄をようやく理解できた訳で、貴重な体験となりました。


少年の歌

 講習会の初日に行われた開講式の中で、シュトックハウゼンの代表作であるだけでなく、音楽史上の重要作でもある「少年の歌」が演奏されました。
この作品が演奏される事は講習会の始めに渡された冊子の中の日程表を見るまでは全く知らされていなかったので、シュトックハウゼンからのこの思わぬプレゼントには大いに興奮しました。
この作品だけでなくシュトックハウゼンの電子音楽全てに言える事ですが、生演奏のマルチ・チャンネルの環境で聴く事によって作品の真価にはじめて触れる事が出来ました。
音色や音源の方向も含めて全ての音楽要素が極めて複雑に構成されているこの曲の音響が前後左右に飛び回る様は圧巻でしたが、私がこの作品の実演から受けた印象を一つの言葉で表すと、それは「輝かしい」音楽であったということです。

 シュトックハウゼンは、彼の師でもあるメシアンのあるピアノ曲を聴いて「まるで星の音楽のようだ」と思い、大きな影響を受けたそうですが、この「少年の歌」も「星の音楽」といえるかもしれません。一つ一つの音があたかも一つの星の輝きのように様々な方向から様々な色合いを伴って聴こえてくる効果はあらゆる音楽パラメータをセリエルに扱う事によって実現されていますが、この「セリー」の概念は現在に至るまでシュトックハウゼンの作曲技法にとって重要なものであり続けています。
セリー技法はシェーンベルクが生み出した12音技法をさらに発展させたものですが、良く誤解されているように、単に(音高の)12音列の概念をリズムや強度にも応用したものではないのです。もちろん初期の試みの中にはこのような考え方で作曲された作品もありますが、こうした概念でセリーを使っているとすぐ、音楽的に(いわゆる)「ネタ切れ」になってしまうのは誰の目にも明らかです。
さらにいえばシェーンベルクの12音技法は革新的であるとともに伝統の枠を完全に破り切れていないとも言えます。シェーンベルクがセリーを変形させるために使った転回形、逆行形などといった考え方は12音列を一種のモチーフのように考えている名残りであり、セリーの真の革新性に気付いていなかったということでもあります。
ある音楽要素の様々な状態を数値化(あるいは記号化)して、それらを文字通り「列」としてまとめ、この「列(=セリー)」を(モチーフの延長線上ではなく)「列そのもの」として取り扱う事が、セリー技法の基本的な考えですが、セリーを「列そのもの」として取り扱うのであれば、逆行、転回など従来のモチーフ操作とは根本的に違った変形のさせ方をさせることも可能ですし、セリー化させる音楽要素も音高、リズムなどといった単一の音の要素だけでなく、音群の数、歌詞の聴き取り易さ、などといったより上位の要素もセリー化することができます。
それでは、なぜセリーを使うのでしょうか?
セリーを使用する事によって、ある音楽要素の持つ多様性を隈無く表現する事ができますし、これらの要素を極めて不規則に、あるいは複雑に、そして組織的に展開する事ができるからです。
こうしたセリーを使った複雑な構造を耳では聴き取れないではないか、という批判はセリーをモチーフ展開の延長線上でしか捉えていない的外れなものですし、色々な要素をセリー化すると作曲が一種の自動作業のようになるのではないか、という懸念も、いくつのセリーを何の要素に対してどのように設定しどのように運用するかは作曲者のアイデアに委ねられる、ということを見落としているのに過ぎないのです。

 例えば「少年の歌」では、音素材として電子音に加えて少年の声が用いられていますが、この選択はもちろんセリーによるものではなくシュトックハウゼン自身によるアイデアですし、少年の声と電子音の間に一種の音色のスケールが設定され、それがセリー化されて展開されますが、このスケールをどのように設定するかはシュトックハウゼンの主観によって決められています。
そして、作曲で用いられた様々なセリーによる構造を耳で完璧に聴き取る事は不可能ですが、セリー作曲による結果として表れる変化に満ちたきらめくような音響自体を耳で楽しむ事はできますし、それがシュトックハウゼンの意図なのです。

 非人間的、機械的と批判される事も多いセリー技法を使って作曲されたこの曲から聞こえる輝かしい音響は運動性に満ち、少年の声によって歌われる宗教的な歌詞と相まって、魂の悦びすら感じる事が出来ます。
そして、この電子音楽の名作として知られるこの曲の複雑な音響は聴き慣れていくにつれて、電子音楽としての側面よりも一種の合唱曲としての側面に惹かれるようになって来ます。ドイツ語がある程度分かる方なら、少年が神を讃える詩を歌っている事はすぐ分かりますし、声が何重にも重ねて録音されている事から少年合唱による宗教的な合唱曲を聴いている様な錯覚すら感じます。少年の発する声(特に子音)が電子音へと変調していくように聞こえる部分が沢山ありますが、現在のシュトックハウゼンなら、そこを電子音ではなく特殊唱法を駆使する事によって実現するのではないでしょうか(ちょうど「水曜日」の「世界議会」のような感じで)。
シュトックハウゼンは「カレ」「モメンテ」「シュティムング」などで「声」の可能性を追求し続け、「声」が電子音にも匹敵する音色の可能性を持っている事を「光」のいくつかの部分で証明するに至りますが、「少年の歌」はこの長い道のりの始まりを成す作品であると言えます。

 個人的な感触では、シュトックハウゼンは電子音楽の巨匠としてよく祭り上げられますが、電子音という非日常の音響がもたらすショック的側面ばかり語られ、音色の繊細な変容や、それがもたらす生楽器との絡み合い、といった観点がいま一つクローズアップされていない感じがします。
「少年の歌」を合唱によるセリー音楽として聞き返してみると、新たな発見が得られるのではないでしょうか?


月曜日

 講習会の最終日には「月曜日」から抜粋した作品が3曲演奏されました。

 まず始めに「月曜日」の上演前にロビーで流される電子音楽「月曜日の迎え」が演奏されました。この作品はスージーのバセットホルンによる演奏の多重録音が時間が止まりそうな位極端に速度を遅められて再生されますが、もともとの演奏で半音を何分割もするような微分音が多用されているため、この停止寸前の時間感覚がさらに強調されます。例の如く、聴衆を取り囲むように配置された8チャンネルのスピーカーからこの神秘的な音楽が再生されると、まるで胎内の赤ん坊のようになった不思議な感覚が喚起されました。
微分音から構成されるハーモニーが本当に少しずつ上がったり下がったりすることによって独特のうねりや浮遊感が生まれますが、始まって15分くらいした所で突然表れるぴちゃぴちゃという水の音の録音の挿入が大きく音楽の流れを変えます。この水の音は23分頃に再び表れますが、今度は楽器に息を吹き込むノイズ音による応答があります。この音は水の音を模しているように聞こえるので、水の音とバセットホルンの音色が関連付けられる様なとても面白い効果を上げています。
時間の止まった様な非常に緩慢な動きと突然の音色の交替、このコントラストがこの作品の面白さの一つでありますが、30分以上というこの作品の長大な演奏時間の中で、完全に日常の喧噪は消えてしまいました。

 「月曜の迎え」の演奏は客席、ステージとも照明は最小限に絞られたほとんど真っ暗な状態で行われましたが、そのまま引き続き行われる「ルツィファーの激怒」のためにステージの照明が明るくなり、この曲の冒頭の電子音が鳴り始めて少ししたあたりからなにやら怪しい(笑)雰囲気が漂って来ます。
ステージ後方の仕切りからニコラス・イシャーウッド(バス独唱)とアラン・ルアフィ(マイム)の二人が演じる「ルツィポリープ」が登場しますが、とにかく何もかもがひたすら「下品なギャグ」に満ち溢れています。
その二人に向かってシンセサイザーを演奏するアントニオ・ペレス・アベリャンが変てこりんなアクション付きで「るぅつぃぃぽぉり〜〜〜ぷ」などとひっくり返りそうな声で叫ぶあたりで、客席はもう大爆笑です。
そこからはニコラスとアランによるアクロバティックな動きと2重唱が次から次へとくり出されますが、動きも歌唱(特殊唱法が多用されている)も恐ろしく大変なはずなのにそれらが「本当に」下品なギャグで埋め尽くされていて、その演奏の困難さを全く感じさせないところは驚異的でした。
私はこの曲のスコアを見たことはないのですが、ルツィポリープの演奏パートにはある程度演奏者の裁量でしゃべる台詞を変更出来るようです。
実際この日に演奏されたものと、最近CDになってでた演奏(全集CD 63)の間にはかなりの違いがあります。
キュルテンでの演奏では、ライヴならではの「特別な」ギャグが用意されていて、「カルマ、、、カール・マルクス、、、カーマスートラ、、、」などと素晴らしく詩的な(笑)韻のようなダジャレをどさくさにまぎれて言ってみたり、二人が曲の最後で棺桶に閉じ込められるシーンでは日本語を含む様々な言葉で二人で下らない事を延々と喋り続けたりと(日本語で「くさい!」と言ったかと思えばイタリア語で「In questa tomba oscura(この暗き墓の内に)」とベートーヴェンの有名な歌曲の一節を歌いだすなど)、かぶりつきの席で聴いていた私は笑い過ぎて涙が出るほどでした。。。
それと同時に、宇宙の神秘的な働きからこのような下品なギャグまで等しく芸術の素材として取り扱うシュトックハウゼンの懐の広さにも感銘を受けました。

 休憩を挟んで、今度は「月曜日」の最終場面の「パイドパイパー」が演奏されましたが、今度は「ルツィファーの激怒」とは一転して神秘的な雰囲気が漂います。
この作品はカティンカによるフルート独奏(アルト・フルート、ピッコロ持ち替え)と2台のシンセ、一人の打楽器奏者とテープによる作品ですが、「月曜日」のミラノ・スカラ座での初演でも使われたメルヘンチックな衣装を着て、ステージ中を所狭しと軽やかに動き回りながら、様々な特殊奏法を駆使した至難なパッセージを楽々と演奏してしまうカティンカの超人的な技量には本当に驚かされました。
舞台後方から次々と楽器を持ち替えて突然登場したり隠れたりする打楽器奏者のアンドレアスも脇役ながらなかなかいい味を出していました。
楽器による演奏と同時に再生されるテープからは「サウンド・シーン」と呼ばれるさまざまな日常の音の断片の録音が次から次へと流れますが、このサウンド・シーンと生楽器、あるいは生楽器の間でもフルートとシンセ、というような様々な組み合わせで音色や音形の模倣や変形、応答などが複雑に行われていて、さらにこの音楽的な運動性とカティンカの軽やかな動きも絡まり合っているという感じで、今回の講習会の最後を飾るに相応しい充実した作品=演奏でした。
それにしても、この作品の新しい録音(全集CD 63 この講習会での演奏の直後に録音されました)の仕上がりは非常に素晴らしく、先程述べたサウンド・シーンと生楽器、あるいは生楽器どうしの音色などの連関が非常に鮮明に捉えられています。こうした特徴は古くは「コンタクテ」に始まる様々な作品に見られますが、ここにその極度に洗練された姿を見る事が出来ます。「月曜日」の全曲のCDでこの作品を知っているつもりの方でも、この新しい録音を聴く事によって、それまでうまく録音に収めきれていなかったこの作品の魅力を再発見する事は間違いないと思います。


金曜日

 今回の講習会で行われたコンサートの中心となったプログラムは「金曜日」全曲の準コンサート形式による演奏でした。「準コンサート形式」とは、オペラの本格的な上演で使われる様な大道具などの本格的な舞台セットは使用しないものの、衣装、照明などを使用して通常のステージで可能な限りの動きを付けて行う演奏形式で、一般的なオペラの演奏会形式による上演にもう少し演劇的要素を加えたものと考えて良いでしょう。

 この作品は1991〜1994年に作曲され、1996年に全曲初演されたにもかかわらず、未だに殆どの部分の録音が発表されていないので、この作品の概要を説明します。

 「金曜日」は「ルツィファーのエーファへの誘惑の日」という位置付けで、基調となる色のオレンジ色は照明や衣装に多用されています。
この作品は「金曜日の迎え」、2幕からなる「金曜日の誘惑」、「金曜日の別れ」で構成されますが、今回はオペラの本質的な部分である2幕の「金曜日の誘惑」のみが演奏されました。ちなみに「迎え」と「別れ」はロビーでそれぞれ開演前、上演後に演奏される電子音楽ですが、「金曜日の誘惑」で演奏される「電子音楽」のレイヤー(後述)が前半(迎え)と後半(別れ)に分けてそのまま演奏されます。

 さて、このオペラは3つのレイヤー(層)からなっています。
1つ目は今触れた「電子音楽」でシンセサイザーの多重録音によってスーパー・フォーミュラの(そのまま演奏すると7秒位の)「金曜日」の部分が約2時間(1000倍以上の拡大!)に引き延ばされて、100倍以上に引き延ばされた(もともと1分で演奏出来る)エーファとルツィファーのフォーミュラと重ねて演奏されるドローンの様な8チャンネルの電子音楽です。
2つ目は「サウンドシーン」と呼ばれる男女二人の声(男声はシュトックハウゼン自身、女声はカティンカによって歌われました)を様々な具体音でヴォコーダーを使って変調させ、ピラミッドのような形に配置された12個のスピーカーから再生されるかなり変態的な(笑)電子音楽です。
3つ目は「リアルシーン」と呼ばれる、伝統的なオペラのように生演奏の歌手と楽器奏者によって演奏される音楽です(但し、ほかの「光」の多くの部分と同様に指揮者やピットで演奏するオーケストラのようなものは存在しません)
これらの3つのレイヤーが互いに重なり合いながらこの作品が演奏される訳ですが、「電子音楽」のレイヤーは終始鳴り続けてこの作品の音楽的背景のような役割を果たすのに対して、「サウンドシーン」と「リアルシーン」は決して同時に演奏される事はありません。例えて言えば、「電子音楽」は海のように全体に渡って途切れる事なく流れ続け、「サウンドシーン」と「リアルシーン」はそれぞれのシーンが孤立した島のようにこの海に浮かんでいるといった感じでしょうか。

 リアルシーンは10の場面で構成されていますが、今回の演奏では合唱などを伴わないソリストだけで演奏可能な5つの場面が実際に演奏され、残りの5つの場面は初演時の録音などがテープで演奏されましたので、一応「金曜日」の全ての音楽を俯瞰出来た事になります。

 10のリアルシーンは以下のような順序と構成になっています。

■ 第1幕 ■

「求婚」
 ソプラノ独唱、バス独唱、フルート、バセットホルン

「子供たちのオーケストラ」(今回はテープ)
  子供のオーケストラ、ソプラノ、フルート、バセットホルン、
  シンセサイザー

「子供たちの合唱」(テープ)
  児童合唱、バス、シンセサイザー

「子供たちのトゥッティ」(テープ)
  児童合唱、ソプラノ、バス、
  シンセサイザー、
  子供のオーケストラ、フルート、バセットホルン

「同意」
  ソプラノ、バス、フルート、バセットホルン

■ 第2幕 ■

「堕落」
  ソプラノ、バリトン独唱、フルート、バセットホルン

「子供たちの戦争」(テープ)
  児童合唱、シンセサイザー

「後悔」
  ソプラノ、フルート、バセットホルン

「ELUFA」
  バセットホルン、フルート

「合唱の螺旋」(テープ)
  合唱(3S, 3A, 6B)

 12のサウンドシーンはこれらのそれぞれのリアルシーンの合間に演奏されますが、始めは12個のサウンドシーン用のスピーカーの内の1つだけが使用され、次のサウンドシーンでは2つが使われ、さらにその次では3つ、というようにだんだん使用するスピーカーが増えていって、最後のサウンドシーンでは12個すべてのスピーカーが使用される、という構成になっています。このサウンドシーンは、ドローン風で瞑想的な「電子音楽」に切り込むように突然大音量で演奏されるので、真っ暗な空間に突然光が差した様な強烈な効果があります。しかもこのサウンドシーンは12チャンネルのマルチ・モノラルという極めて異様なミックスが施されているので余計にこの効果が強調されます。
(このサウンドシーンだけを取り出して編集したものがPAAREというタイトルでCD化されています[全集CD 48]。あと「電子音楽」と「サウンドシーン」を同時に収めたものも同様にCD化されています[全集CD 49]。)

 ソプラノ歌手はエーファを演じ、ELUとLUFAというエーファの侍女のような役割を果たす二人の役はそれぞれバセットホルン奏者とフルート奏者が演じます。
バス歌手はルドン(=ルツィファー)、バリトン歌手はルドンの息子であるカイーノを演じます。
ルドンはエーファに、人類の発展のためという口実で、ルドンの息子カイーノと結婚するように提案し(いわばエデンの園におけるエバへの蛇の誘惑と同じものだと考えれば良いでしょう)、第2幕の「堕落」のシーンではエーファとカイーノが実際に交わり合い、しかし人類が発展するどころか子供達は戦争を始め、「後悔」の場面でエーファが、ミヒャエル、(夫の)アダム、神に懺悔する、というストーリーです。

 ちなみにリアルシーンの「ELUFA」は ELU と LUFA の2重奏であることからこのタイトルが作られていますが、ELU と LUFA という役の名前自体が、このオペラの主要人物であるエーファ EFA とルドン LUDON から取られているのです。言ってみれば役のネーミングもセリエルに行われているといって良いでしょう。

 ELU と LUFA のパートはおなじみのスージーとカティンカを想定して作曲されたので、様々な特殊奏法や微分音が多用された演奏至難なものになっているのは当然として、エーファ、ルドン、カイーノの3人の声楽パートも演奏は決して簡単ではありません。
3人の歌手はドイツ語で歌いますが、子音も母音と同じ重要性をもって作曲されているため、歌詞は一般的なドイツ語の表記ではなく発音記号を使って克明に記譜されています。
とりわけコロラトゥーラ・ソプラノのために書かれたエーファのパートは演奏困難な最高音域が連続するだけではなく、「後悔」の場面では「祈り」で使用された独自のジェスチャーの楽譜も歌いながら演じなくてはならないので演奏に対する負担はかなりのものですが、エーファを演じたアンジェラは、過酷なスケジュールのリハーサルによる疲労は完全には隠しきれなかったものの大健闘だったと思います。

 それぞれの「リアルシーン」ではその他の「光」からの諸作品同様、頻繁(数小節おき)に変化するテンポの半音階を正確に演奏しなくてはいけませんが、先述の通り、一部の例外(子供のオーケストラはエーファが指揮をする)を除いて指揮者は存在しません。つまり舞台上の演奏者がぴったりと息を合わせて頻繁なテンポの変化に対応しなくてはならないのですが、少し考えれば分かるように、これを実現するのは物凄く大変な事で、本番直前のリハーサル中にもミキシング・コンソールからシュトックハウゼンが指揮をしながらテンポを訂正する場面がありました。それでも敢えて指揮者を置かない理由は演奏者同士による自発的なアンサンブルを喚起するためなのでしょう。

 「子供たちの戦争」の部分だけは、その他の初演時のテープ再生で生演奏の代用とした場面と異なり、「コメット_ピアノ曲XVII」として発表されたヴァージョンの録音(全集CD 57に収録)が使用されました。ここでは、本来児童合唱で歌われるパートがカティンカの歌声の多重録音で演奏されます。
精密なサウンドプロジェクションを施した生演奏の部分を聴いてしまうと、ステレオにミックスされたテープ再生のサウンドはどうしても平面的に聴こえてしまうのですが、「子供たちの戦争」の場面ではその欠点を補うとともに、この場面の運動性に満ちた音響を表現するために、シュトックハウゼンがリアルタイムで即興的に左右のバランスを変化させました。ミキサーの隣り合った2つのフェーダーを両手でくっくっ、と動かすシュトックハウゼンの姿はテレビゲームに夢中になる無邪気な子供の様で微笑ましかったですし、もちろん音響的にも大きな効果を上げていました。

(ちなみにこの手法は全集CD 3 に収められたミュージック・コンクレート「エチュード」にも用いられています。この作品はシュトックハウゼンが始めて完成させたテープ音楽で1952年に制作されたものなのですが、ある時、この作品がステレオにミックスされている様に聞こえる事に気が付きました。この作品の作曲した時点でステレオ録音はほとんど普及していなかったはずだし、実際、この後に作曲された2つの電子音楽「習作 I, II」はモノラルの作品なので、「エチュード」がステレオにミックスされているのはかなり不自然に感じたのです。このことを清水穣氏に問い合わせた所、清水氏が直接シュトックハウゼンにこの件について照会してくれました。その回答によると、このCDをミキシングする段階で、オリジナルのモノラル録音を再生しながらシュトックハウゼンがリアルタイムで即興的にフェーダーを操作して左右のバランスを変化させた、とのことです。つまり「子供たちの戦争」と全く同じ手法です。非常にシンプルでありながら音楽に運動性を与える優れた手法だと思います)

このように、一部折衷的な方法を使ったとはいえ、「光」の中の一つのオペラが全曲聴けた(しかも2回の本番と何度かのリハーサル)、というのは非常に貴重な体験でした。この講習会の後、同じメンバーでこの「金曜日」を録音し、昨年の末に「金曜日」全曲のCDが発売される予定でしたが、どういう訳かいまだ発売される気配すらありません。この名作のCDの早期の発売が待たれる所です。すでに発売済み


日曜日

 例年と同じく、今回の講習会でもシュトックハウゼン自身によるコンポジション・セミナーが行われました。
今回のテーマは「日曜日」の第1場である「Lichter-Wasser(光 – 水)」でした。
「日曜日」は7つのオペラからなる「光」の最終日に演奏される作品ですが、Lichter-Wasserはこのオペラの中で現時点で発表されている唯一の作品で続きの部分は現在作曲中で、おそらく今年(2002年)中に全体が完成するものと思われます。
コンポジション・セミナーのために全受講生に配付された詳細なテクストや講習会の時期に発売されたLichter-Wasserのスコアに「日曜日」全体の構成のプランが紹介されていますので、まずそれを紹介します。

 第1場 Lichter-Wasser 光 – 水 [日曜日の迎え](1999年完成)
  ソプラノ独唱、テノール独唱、シンセサイザー、オーケストラ
   初演: 1999年10月ドナウエッシンゲン

 第2場 Engel-Prozessionen 天使 – 行進(2000年完成)
  (7つの言語で歌われる)ア・カペラ合唱
   初演: 2002年10月アムステルダム

 第3場 Licht-Bilder 光 – 絵(詳細不明)
  ソプラノ独唱、テノール独唱、バセットホルン、トランペット、フルート、シンセサイザー

 第4場 Düfte-Zeichen 香 – 徴(2002年作曲開始)
 7人の歌手、ボーイソプラノ、シンセサイザー
   初演予定: 2003年8月ザルツブルク

 第5場 Hoch-Zeiten 至高 – 時(結婚)(2001年完成)
  2つの異なるホールで同時に上演される(5つの言語を歌う)合唱とオーケストラ
   初演: 2003年1月サンタ・クルス・テネリフェ

 Licht-Fest 光 – 祭 [日曜日の別れ](詳細不明)

 Lichter-Wasserのもっとも大きな特徴は、29人のオーケストラの各奏者が客席の中に散らばるように配置され、ミヒャエルとエーファの両フォーミュラが音色旋律のように1音(あるいは数音)づつ違う楽器によって演奏されるので、2つのフォーミュラが聴衆のまわりを不規則にぐるぐると運動しているように聴こえるということです。初期の成功作である「少年の歌」で初めて試みられた空間音楽の極めて洗練された姿がここにあると言って良いでしょう。
つまりこの作品の面白さを真に味わうためには実演を体験するしかないのですが、シュトックハウゼンは研究用などの目的のために8チャンネルのこの作品のミックスを作成していて、今回のコンポジション・セミナーではこのミックスを聴く事が出来ました。もちろん実演には及ばないものの、ステレオにミックスされたCDの録音を聴くよりははるかにクリアーにこの作品の音の空間移動の魅力を味わう事が出来ました。
この作品をCD(全集CD 第58巻)でお聴きになった方はお分かりかと思いますが、シュトックハウゼンの全作品の中でも類い稀なこの作品の非常に美しい響きが、音色を変化させながらぐるぐると体の周りを回転するように運動しながら聴こえて来る様はこの世のものとは思えませんでした。
しかもこの8チャンネルのミックスを、ある時はオーケストラの楽器だけ、またある時はオーケストラにシンセサイザーと二人の歌手が加わった(スコア通りの)形で、というように様々な方法で聴く事ができたのは作品理解に非常に有益で貴重な体験でした。
この空間移動も膨大なスケッチを作成する事によって綿密に計画されていますし、その他、フォーミュラの扱い、何度か表れるホモフォニックな挿入部分、太陽系の惑星や衛星の名前をひたすら連ねた文字通り「飛んだ」歌詞、「彗星」とシュトックハウゼンが呼ぶ装飾的な挿入音形など、とてもここでは紹介できないほど膨大な情報がシュトックハウゼン自身の講義や詳細なテキストから紹介されましたが、最も印象に残ったのはシュトックハウゼンの職人気質です。
「光」全曲の作曲に先立ち、7日間のこの巨大オペラの設計図を1分間の3声のスーパー・フォルメルとして作曲し(つまりこの時点で各オペラ、各場面の演奏時間の配分、中心音などがかなり細かく規定されているということです)、その設計図に基づいて建築家のように順序立てて細部を仕上げていく方法をとっています。Lichter-Wasserの作曲ももちろんこうした作業の一貫として行われているのですが、テキストに収録された膨大なスケッチの一部を見ると、スーパー・フォルメルの楽譜のコピーを何部も作成しそこに色鉛筆でさまざまな書き込みやテンポや演奏時間の計算などを行い作品の細部の構造の決定を行っている事がよく分かるのです。そこからさらに新しいスケッチを作成したり、ある音楽素材のすべての展開可能性を全て列挙して検討を加えたりと(=セリエル!)、バッハ、ベートーヴェン、シェーンベルクというドイツ音楽の論理的な作曲思考の伝統に連なる精神性を強く感じさせます。
しかし時には、自分で決めたルールや計画から意図的にはずれた(つまり非論理的な)ものを作曲時点で付け加えてしまうという非常に興味深い傾向がシュトックハウゼンにはありますが、これは今に始まった事ではありません。初期の電子音楽の「習作 I 」はサイン波の合成だけで全曲が構成されるように厳密に計画されていますが、1か所だけこの文脈に全く関係のない花火のような音を挿入したり、「マントラ」では二人のピアニストが能の様な声をかけ合う(「落ち」までついた)ユーモラスなイベントが用意されていたりと、それぞれの作品の最低1か所にはこのような「自由な挿入」があるといっても過言ではありません。
このLichter-Wasserを始め「日曜日」では、「光」の作曲上のルールに従えば本来使用されなくてはならないはずのルツィファーのフォーミュラが一切登場しません。「日曜日」はエーファとミヒャエルの神秘の結婚がテーマとなっていますし、「土曜日」でルツィファーは死んでいますから、「日曜日」にルツィファーのフォーミュラが出て来るのは相応しくないと判断し、当初の計画を変更したという事です。しかし、この計画変更はもともとの作曲素材の3分の1を丸々カットするというかなり大規模なものになるので、シュトックハウゼンは自分なりの(やや強引な)理由付けを行いました。それは、削除されたルツィファーのフォーミュラの部分を「ルツィファーの牢獄(笑)」という独立した作品として「日曜日」とは切り離して演奏するように設定し(ご丁寧に楽器編成まで指定されています)、スキンヘッドで革の黒いズボンを吐いた(ヘビメタ風の)柄の悪い兄ちゃんが、どこかの地下室かなにかで人知れず演奏すればよい(笑)、ということにしてしまったというものです。
ところで、先に少し触れた「彗星」と呼ばれる部分は、二人の歌手が太陽系の惑星や衛星の名前を歌っている背景で装飾的に演奏される音形ですが、この音形の素材としては半音階や自由な音程を使ったアルペッジョが使用されていますから、この部分も「自由な挿入」と言って良いでしょう。もっと細かくスコアを見れば至る所でフォーミュラやその核セリーに自由な装飾音型をつけたり、部分的にセリーの順番を変えたりということも数多く発見出来ます。
普通の作曲家ならこのようなことは不思議ではないかもしれませんが、シュトックハウゼンの場合は作曲にあたって膨大なスケッチを作成して厳密な構成を計画するという多大な作業を経た上で、それに相反する直感的で理論を超えた変更を行なっている訳で、思考の過程としては非常に興味深いと言えるでしょう。
むしろ、受講生の作曲家の方にそういう意味では理論に囚われた「頭の硬い」人がいて、講義のあとの質問時間に「私はこの作品を詳細にアナリーゼしてみて気が付いたのだが、どうしてここに、フォーミュラと関係のない音があるのか?」というような質問をして、シュトックハウゼンが「別に大した理由はないから説明のしようもない」といった醒めた返答をする、ちょっと笑える場面もあったりしました。
この講義のあとの質問コーナーは、受講生が自由に会場の中心にセットされたマイクのところへ進んで質問していいのですが、ちょっと感じの悪い質問や間抜けな質問を繰り返す人も何人かいて会場中の受講生が思わずため息をついてしまったりする場面も少なくありませんが(笑)、そのような質問にも激昂せずにきちんと返答するシュトックハウゼンは几帳面と言うかなんというか… そう、「偉い」と思いました(汗
質問に答える過程で話がしばしば脱線して、例えば宇宙の話などになると、シュトックハウゼンが「こういう話をすると、まわりの人間が、自分の事をクレイジーだと言うんだけどね。」なんて自分自身を茶化したりする場面もありましたが、逆にそれが自分自身への自信と確信の強さを浮き彫りにしていました。
ちなみにこの講義に使われた貴重なスケッチやスコアの抜粋が満載の英文のテキスト(部分的にカラーのページも有)は、限定数ですがStockhausen Verlagより入手する事ができます。興味のある方は是非とも美しいスコアとともに購入する事をお勧めします。

 この講習会では、コンポジション・セミナーと銘打った全受講生を対象としたレクチャーは行われますが、シュトックハウゼンが個々の作曲家の受講生の譜面を見て指導するということはありません(運が良ければデモテープなどを聴いてもらう事はできるかもしれませんが)。しかし、シュトックハウゼンはこのセミナーを通して自分の作曲のプロセスを包み隠す事なく克明に説明する訳ですから、作曲家にとってはひとつの「良いサンプル」として大きな刺激になる事に間違いはありません。もちろん演奏家や愛好家の人にとっても作品の理解や演奏の大きな助けになることは言うまでもありません。

 今回の講習会の演奏会のプログラムの裏表紙は「金曜日」のフォーミュラによる詳細な設計図の自筆譜の上に「Lernen mit Fleiss」という文字が大きく書かれたデザインになっていますが、これは訳すと「こつこつと学習」というような意味になります。
つまり、作品を作る(作曲)にしても、演奏するにしても、聴取するにしても、なんとなくやるのではなく徹底的に努力して学習する事が必要である、というシュトックハウゼンの信条がここに示されているという訳です。
シュトックハウゼンの作品の聴取という面に絞っても、なんとなく表面的に聴いただけで彼の音楽の神髄が理解されることは決して有り得ず、シュトックハウゼンの作曲技法、コンセプトなどをテキストを読んだりスコアを研究し、それを実際に鳴り響く音として何度も丹念に聞き返す事によって、作品の本当の素晴らしさをようやく理解できる、というのは初期から現在に至る全ての作品について言えます。
この辺の事情が、一般的な聴衆がシュトックハウゼンの作品に近寄りがたく感じる一つの原因となっていて、「神秘主義に溺れた誇大妄想の作曲家」などといった荒唐無稽なレッテルがこの状況をさらに悪化させている訳ですが、ポピュラー音楽だけに限らずクラシック音楽の多くの作品でも新奇で目を惹くいわば「キャッチー」な効果を利用して、ちょっと聴いてみると面白いけれども、聴けば聴くほど底の浅さが露呈してくる質の低いものが多い中、シュトックハウゼンの作品はこのようなキャッチーな要素が皆無なだけに初めて聴いた時には良さが殆ど分からないけれども、意識を高く持ち、強い集中を以て聴き込めば聴き込むほど、それまで隠れていたように見えた(しかしそれは初めから明らかな形で存在していたのです)本来の深遠な魅力が姿を表してくるという恐るべき特徴を持っています。その奥の深さは例えばベートーヴェンの晩年の弦楽四重奏のそれに匹敵すると言っても良いでしょう。

 いまだに日本中に蔓延しているアンチ・シュトックハウゼンの逆風の中、敢えて私がこのようなサイトを作ってシュトックハウゼンの音楽の素晴らしさを多くの人に知ってもらおうと稚拙な文章を書き続けている理由はここにあります。この文章を読んで少しでも興味を持った方がシュトックハウゼンの音楽に親しむようになってもらえると私は嬉しいですし、シュトックハウゼンは聴いた事があるという方にもより深く理解していくきっかけになれば、と思います。もちろん、どのような作品から聴いていけばよいか、というような質問等ももちろん大歓迎です。