2000年7月29日から8月6日の約1週間にわたって、ドイツのキュルテンにおいて「Stockhausen Courses Kürten 2000」と題されたシュトックハウゼンの音楽に関する講習会が行われました。
私はこの講習会を受講し、シュトックハウゼンの多くの作品の作曲者自身の監修による多くのコンサートやリハーサルを聞き、シュトックハウゼン自身による「シリウス」の楽曲分析をテーマとした8回にわたる講議、シュトックハウゼンの音楽を熟知したすばらしい演奏家によるレッスンを体験しました。
これらのすべてが、私の予想をはるかに超えた非常に充実した内容で、作曲者自身の監修による演奏の極度の完成度に驚くと共に、「神秘主義」というひとことで音自体もまともに聴かれぬまま不当な評価を受けているシュトックハウゼンの近作のすばらしさ、シュトックハウゼンの勤勉な人柄に直接接した体験を日本の皆さんにもぜひ知って頂きたいと思い、この講習会のレポートを少しずつ書いて行きたいと思います。
ちなみにこの講習会、演奏家、作曲家、音楽学者はもちろん、シュトックハウゼンの音楽を愛する聴衆のみなさんにも受講資格があります。たった3万円弱の受講料を払うだけで連日の素晴らしいコンサート(今年度は9回のコンサート)、レクチャー、レッスンやリハーサルの見学ができるという非常に素晴らしいセミナーです。
このレポートを読んだ方のどなたかが来年度以降のセミナーに参加してもらえれば非常に嬉しいです。
キュルテンはケルンから電車、バスを乗り継いで1時間あまりの小さな町です。この講習会に以前参加したことのある方の情報から、かなり田舎だと聞いていましたが、実際に電車、バスを乗り継いで行くとどんどん緑が多くなってセミナー会場の最寄りのバス停の近くには小川が流れ、まわりは美しい緑と点在する家だけという状況で、ここで本当にあの世界的な作曲家の講習会が行われるのか、と少し不安になりました。
木々に挟まれた小道を歩くこと数百メートル、なにやら学校らしき建物が表れました。事務局がどこにあるのやら良く分からず建物をうろうろしていると、ある男性の方が親切に場所を教えてくれました。こわもての人達がたくさんいるのかと勝手に想像していたため、いきなり拍子抜けしてしまいました。
そして事務局にいってみると若い女性と男性が笑顔で迎えてくれるではありませんか。CDジャケットでみるいっちゃった顔のシュトックハウゼンから勝手に想像していた講習会の雰囲気とあまりに違うのでまたまたびっくりしてしまいました。
ひととおりセミナーの内容の説明を受けた後、「シリウス」のリハーサルが数十分後に行われると聞き、いきなり私の気持ちは高揚してしまいました。
単に参加の手続きのためにとりあえず来てみたつもりが、ナイスタイミングでのシリウスのリハーサル。あの「シリウス」が生で聴ける!!
ホールの場所を教えてもらい会場に入ると客席が「シリウス」用に特殊な形で配置されています。
実はこのセミナー、夏休み中の学校を借り切って、演奏会はそこの体育館で行われたのですが、そこに最高級のPAや照明の機材を持ち込むことによって学校の体育館であることを忘れさせる素晴らしいステージを作り出していました。
(というか、はじめの2、3日間はあまりのステージの素晴らしさに、そういうことに気が付かなかったくらいなのです)
私がキュルテンに着いたのは講習会開始の前日、この日のリハーサルは全曲通しでのリハーサルでした。照明も衣装も本番と全く同じ。
会場が暗くなり冒頭の電子音が鳴り始めました。家庭用のオーディオでは決して聴くことのできないすさまじい超低音です。それから1時間以上繰り広げられる電子音と4人の素晴らしい音楽家の極上の音楽。まだ講習会の前日というのにいきなりの強烈な体験。
あまりに濃密すぎて1週間体が持つだろうか心配になるくらいでした。
セミナー期間中の基本的なスケジュールは以下の通りです。
午前 | 夜のコンサートのためのリハーサル | 約3時間 |
午後 | 各講師によるレッスン | 約2時間30分 |
夕方 | シュトックハウゼンによる「シリウス」についての講議 | 約1時間30分 |
夜 | コンサート | 約2時間 |
全ての受講生はこれらのすべてを自由に見学、聴講することが出来ます。朝のリハーサルが始まるのが午前10時、コンサートが終わるのがだいたい午後10時で、このスケジュールが1週間続く訳ですから、このセミナーの濃密さがたやすく理解できると思います。
今年度のコンサートの演奏曲目は以下の通りです。
(s)と記した日は受講生によるコンサートです。
7/29 | SIRIUS |
7/30 | SIRIUS |
7/31 | 3xREFRAIN 2000(世界初演) KOMET(打楽器とテープのための版、世界初演) FREIA(フルート版) KOMET als KLAVIERSTÜCK XVII(世界初演) |
8/1(s) | HARLEKIN KONTAKTE(電子音、ピアノ、打楽器のための版) |
8/2 | VORTRAG ÜBER HU INORI(オーケストラ部分はテープで演奏) |
8/3(s) | KLAVIERSTÜCK XII IN FREUNDSCHAFT(サクソフォン版) REFRAIN ZUGENSPITZENTANZ(ピッコロとシンセのための版) SUSANI SUSANIs ECHO DER KLEINE HARLEKIN ELUFA |
8/4 | KLAVIERSTÜCK I-V IN FREUNDSCHAFT(オーボエ版) KLAVIERSTÜCK XI OBOE KLAVIERSTÜCK XI SPIRAL |
8/5(s) | AM HIMMEL WANDRE ICH KATHINKAs GESANG als LUTZIFERs REQUIEM |
8/6 | SIRIUS |
このセミナーの講師はシュトックハウゼンの作品を何度も演奏したことのあるCDなどでもおなじみな人ばかりなので素晴らしいのは当然なのですが、驚いたのは受講生によるコンサートも異様に演奏レベルが高かったことです。以前からこの講習会に参加している方のお話によると、回を重ねるごとに受講生のレベルが確実に上がっているとのことです。
今回の講習会の一番の目玉であり、コンサートでも3回演奏された「シリウス」について簡単に説明しましょう。
「シリウス」は4人の演奏者(トランペット、バス・クラリネット、ソプラノ独唱、バス独唱)と8チャンネルのスピーカーで再生される電子音のための90分以上に及ぶ大作で、シュトックハウゼン70年代の最高傑作と言えるでしょう。
聴衆のための椅子は演奏会場の中央を向くように並べられ、4人のソリストは聴衆のまわり4方に設置された台にのぼって演奏します。8チャンネルのスピーカーも聴衆のまわりをぐるりと取り囲むように配置されるので、音楽は聴衆の前後左右のあらゆる方向から平等に聴こえてくることになります。
「シリウス」においてもっとも重要な役目を負っているのが春夏秋冬の四季を代表する4つの星座(牡羊座、蟹座、乙女座、やぎ座)のメロディー(シュトックハウゼンの作曲技法上の正確な呼び名はフォーミュラ)で、これらのメロディーが音楽の流れ(この作品では音楽の流れが一年の四季の流れを表現している)に応じて複雑に変形、展開していく作品です。
4人のソリストはそれぞれ指定された色のコスチュームを着て、あたかもオペラの登場人物であるかのように若干のジェスチャーを伴って演奏するのですが、実際にステージで見たこの衣装や動きは、それまで音だけで抱いていた「シリウス」のイメージとあまりに違っていたので私は非常に驚きました。
一応この4人のソリスト達はシリウス星からの使者という設定なのですが、UFOからこわーい宇宙人が表れるという感じでは全くなく、むしろ(喩えは悪いですが)ギャグ漫画に出てきそうな楽しい宇宙人といった感じです。
そして、シリウスからのメッセージが云々という部分は、いわゆるイントロとコーダのようなものでそれほど重要ではなく、この作品の大部分を占め、音楽的にも充実しているのはWHEEL(車輪、輪)と名付けられた1年の四季を極めて複雑な対位法で表現している部分です。(シュトックハウゼンは声部の重なりというよりは、レイヤーの積み重ねというように考えているようなので、伝統的な対位法とはかなり意味合いは異なります)
ですから、この「シリウス」という作品は、神秘主義にのめりこんだシュトックハウゼンが自分を神やシリウス星人などと思い込んで、とんでもないメッセージを発しているなどという作品では「決してあり得ず」、むしろ楽しい宇宙人に扮した4人の音楽家がヴィヴァルディの「四季」の20世紀版を、華麗な技巧で演奏する作品と捉える方がこの音楽の本質に近いのではと思います。
ソプラノとバスの二人の歌い手の間でかわされる対話にはモーツァルトやロッシーニのどたばた喜劇を思わせるコミックなものを感じさせるし、ある部分(CANCER 12分30秒あたりから)で頻発するゲネラル・パウゼの部分で4人がつくるへんてこりんなストップ・モーションは単なるシュトックハウゼンのオヤジギャクということで単純に笑えます。
もし、これをけしからん、と言うならば、モーツァルトの「魔笛」のような傑作オペラも一緒に抹殺されねばならぬでしょう。
「シュトックハウゼン」という名前はこむずかしいゲンダイオンガクの代名詞のようになっている面もありますが、この「シリウス」を聴いていた何人かの小学校にも入学していないと思われる子供達は、驚くべきことに退屈するどころか楽しんでいたのです!
この「シリウス」は第1回目の演奏がセミナーの開講式直後に行われたのですが、この時に「シュトックハウゼン=神秘主義」という安直かつ不正確な図式はあっけなく崩れ去ったのでありました。
私はStockhausen Verlagからでているシュトックハウゼン作品の全てのCDを繰り返し聴いていたので、彼の音楽についてそれなりに理解していたつもりですが、たった一度の生演奏を聴いただけで私のシュトックハウゼン観というものが、このように大きく変わってしまいました。このような驚くべきことは当然のようにセミナーの期間中ずっと続き、私の心の中に決してなかったとは言い切れなかったシュトックハウゼンに対するある種の偏見のようなものはセミナーの終わる頃にはすっかりと消え去ってしまったのです。
ともかく今年度のシュトックハウゼン講習会の目玉は「シリウス」でした。3回の「シリウス」の演奏に加えて、セミナー2日目以降最終日まで毎夕行われたシュトックハウゼン自身による「シリウス」の楽曲分析の講議は圧巻でした。
「シリウス」の大まかな構成の説明から始まって、この曲で最も重要な役割を果たしている4つの星座のメロディーそれぞれの分析、主要部分の電子音楽の分析、8チャンネルのスピーカーをぐるぐる動き回る電子音楽を制作するために使用された特殊な回転式スピーカーのことなどを、全受講生に配られた、スケッチ、譜例、図面などが満載のテキスト、オルゴール、8チャンネルの電子音楽などをふんだんに利用して非常に詳細に説明していました。
まず驚いたのが「ティアクライス」のメロディーの分析です。もともとオルゴールのために作曲されたこれらのメロディーは非常に愛らしく、一見まるで鼻歌のようなメロディーなのですが、実は非常に巧妙に作曲されていて、しかも作曲過程での思考方法が50年代以来のセリー技法の概念を拡大しただけということを理解するとともに、シュトックハウゼンの首尾一貫した作曲態度に感服しました。
12のティアクライスのメロディーはそれぞれがオクターヴ内の12の半音全てを含み、星座が一つ進むたびに中心音が半音ずつ上昇し(つまり12のメロディーの中心音が半音階を形作る)、12のメロディーはそれぞれ違った12のテンポを持つ(この12のテンポは「テンポの半音階」を形作ります。)といった基本的な特徴は譜面から容易に読み取れていたのですが、音形の上昇や下行、各フレーズの長さ、メロディー全体の音域のバランスなどのすべてがセリーに基づいて思考、作曲されているとは驚きでした。
これらのメロディーは妙に頭に残って、私も含めたセミナーの受講生の多くが半無意識的にあちこちでこれらのメロディーを口ずさんでいたのですが、こうした現象も巧みな作曲技法の賜物なのでしょう。
「シリウス」の電子音楽は基本的にはこの4つの「ティアクライス」からのメロディーのみで構成され、3層のレイヤー構造になっていますが、それぞれのレイヤーでは独立してこれらのメロディーが音域、テンポ、空間移動などの様々な要素が複雑に変型され、そのヴァリエーションのアイデアの豊富さには恐れ入りました。
各部分の電子音楽の分析の際には必ず該当部分の8チャンネルの電子音楽を実例として聴いたのですがこれが非常に「シリウス」の音楽の理解に非常に役に立ちました。
「シリウス」は3層から成る電子音楽と4人のソリストで演奏される音楽ですが、それぞれの声部(レイヤー)ではかなり独立して複雑なメロディーの変形が行われるため、一度目の演奏を聴いた時にはとにかく「圧倒され」、二度目の演奏の時には、すべての音を聴き取ろうとしながらもあまりの複雑さに挫折してしまいました。いってみれば7人に同時に話し掛けられてその全てを理解しようとするのと同じことをやろうとしていたのですから、当然といえば当然です(聖徳太子なら可能でしょう)。毎日の講議で電子音の部分だけを何度も聴いた後、セミナー最終日の三度目の演奏を聴いてようやくこの複雑きわまりない音楽をなんとか把握出来ました。
「シリウス」は大好きな曲で以前からCDを何度も聴いていたのにもかかわらず、生演奏を聴くのに困難を感じた理由は非常に簡単です。8チャンネルのスピーカーで再生される音楽をステレオのフォーマットに収録することは根本的に無理なのです。この「シリウス」の電子音楽の空間移動の効果はそれだけ絶大かつ複雑なので、完全にこの音の動きを耳で捉えようとするならば、何度も電子音だけを聴く必要があるのです。
ただし、興味深かったのは知覚不可能なパッセージも多用していることです。例えば、あるメロディーが聴き取れないくらいにスピードが速くなってノイズのようになってしまったり、逆に一つのメロディーと認識できないくらいにメロディーの一つ一つの音が孤立して極めてゆっくりと演奏されたりする箇所があり、これらの部分も当然音例として聴かせてもらいました。
あまりに複雑で一度ですべての音事象を追い掛けられないような部分は何度も同じ部分を繰り返し聴かせてもらったり、大事な音が表れた時には、シュトックハウゼン自身が指を上の方に指して、これを聴け、とばかりに合図していたのは親切で良かったです。
一連の講議を受講して感じたのは始めから最後までのすべてにおいて極めて論理的であるということです。
また、70年代以降のほとんどの作品でみられるフォルメル・コンポジションという作曲技法が、それ以前のセリー技法を否定して生まれたのでなく、セリー概念を拡大し、発展して生まれたのだということもよく理解出来ました。この作曲技法を用いて作られた作品は、親しみやすい「メロディー」が容易に聴き取れるので一見理解しやすく単純なもののように感じられるかもしれませんが、実際にはそれ以前のセリー技法を用いて作曲された作品と同程度、あるいはそれ以上の複雑な構造を持っていて注意深く何度も聴けば聴くほどその構造が明らかになってくるという非常に奥深いものなのです。
セリーは本質的に抽象的なものなのでこの構造を耳で聴き取るのにはかなりの困難を要しますが、フォーミュラは非常に知覚しやすいため、より深層に隠された構造へ到達するのに便利な道しるべとなります。
また、このフォーミュラ自体を巧みに作曲することによってある種のキャラクターを与えることができるので、これをさらに巧みに配置することにより音楽に豊かなニュアンスを加えることができます。
この作曲法は「シリウス」に続く大作「光」にも当然適用されていますが、たった3つのフォーミュラから20年以上も作曲し続けられるのは、この作曲技法自体の可能性の豊かさと、シュトックハウゼンの職人的とも言える極めて論理的な思考の賜物なのだなと深く納得出来ました。
シュトックハウゼンは新しい音楽概念を数多く彼の音楽に取り入れていったので、当然演奏家も新しい演奏技術を開拓しなければなりません。様々な特殊奏(唱)法を要求されるのはもちろんですが、そうしたことよりもセミナーの受講生の間で話題になったのはシュトックハウゼンの編み出した新しいテンポの概念です。
この概念は「テンポの半音階」と呼ばれ、「グルッペン」を作曲していた頃にこの概念が生まれました。音高の半音階(平均律)は1:2という周波数の比率(オクターヴ)を等しい12の間隔に分けることによって作り出されますが、シュトックハウゼンはこれと同じことをリズムにも適応することによって音高のセリーと全く同じ構造を持つリズムのセリーを作り出そうとしました。しかし等しい12の間隔に分けられた1:2の比率は、「1:2の12乗根」という極めて複雑な比率を取るためこのような複雑なリズムを記譜したり演奏したりすることは極めて困難、というかほとんど不可能です。そこでシュトックハウゼンは複雑なリズムを記譜する代わりにテンポを変更することによってこの困難を克服した訳です。こうして作り出された「テンポの半音階」をメトロノームの数字で表すと次のようになります。
60-63.5-67-71-75.5-80-85-90-95-101-107-113.5-(120)
もちろんこれらの数値は実際の演奏を考慮して大まかな数値になっていますが、それでも普通のテンポの感覚から考えると非常に細かいテンポの要求がなされていることが容易に分かると思います。(この概念の詳細については、『シュトックハウゼン音楽論集[シュトックハウゼン著、清水穣訳、現代思潮社]』の中の「…いかに時は過ぎるか…」という文章をぜひともお読み下さい)
この数値の中に0.5という通常の感覚からすると異常なまでに細かいテンポの指定があるため、この「テンポの半音階」はセミナーの受講生の間で通称「ポイント・ファイヴ」と呼ばれていました(笑)。
演奏家の間では、一般的にメトロノームによるテンポの指定はそれほど厳密なものとは考えられていない様ですし、作曲家によっては、楽譜で指定したメトロノームの速度では速すぎて実際には演奏できないけれども理想のテンポである、などといった不可思議な注釈を付けていますが、それに対してシュトックハウゼンは常にメトロノームのテンポ指定を遵守することを要求しています。
前出のシュトックハウゼンの文章では音高とリズムの同一性についても述べられています。
1/30秒の周期を持つパルスは非常に低い音高(30ヘルツ)として感じられますが、この周期が約1/16秒より遅くなると音高ではなくリズムとして感じられるようになります。例えば1秒の周期のパルス(1ヘルツ)はメトロノームで60のビートとして、0.5秒の周期(2ヘルツ)なら120のビートとしてそれぞれ感じられるようになります。つまり、音高とリズム(テンポ)は水と氷のような関係であって、同じ現象の違った様相に過ぎないということであり、過ったテンポで演奏することは、音高を間違えるのと同じことであるという結論になる訳です。
そういう訳で演奏家の受講生はメトロノーム必携ということで、私もメトロノーム片手に、この「テンポの半音階」の練習にはげんだのですが、この新しい演奏概念を学んで分かったことはシュトックハウゼンの要求していることは無意味なことではない、ということです。始めのうちはこの微妙なテンポの違いというものをなかなか認識出来なかったのですが、この感覚に慣れてくると、「テンポの半音階」をうまく使うことによって絶妙なリズムのニュアンスや複雑なリズムの関係を生み出せることに気が付き、シュトックハウゼンの一見無謀な要求も当然のことと認識出来たのです。
そしてこのリズムの領域でのシュトックハウゼンの創意は、彼の師ともいえるメシアンの「添加価値を持つリズム」(詳しくはメシアンの著書「我が音楽語法」をお読み下さい)の概念を想起させ非常に興味深く感じました。
「シリウス」以外での今年度のセミナーの大きな目玉は「シリウス」とならぶシュトックハウゼン70年代の大作「祈り」の上演でした。この「祈り」という作品は1〜2人のダンサー=マイムとオーケストラのための一時間をこす大作で、本セミナーでの上演ではオーケストラ部分はテープでの演奏でした。
こういう風に書くと「カラオケ風簡易版」というようなあまり良くない印象を持つ方がいらっしゃるかもしれませんし、私も当初そうした気持ちを持っていなかった訳でもなかったのですが、実際にはそうした気持ちを裏切る印象深いステージで大きな感銘を受けました。
ダンサー=マイム、プラス、テープという演奏形態はあり得ても、ダンサー=マイムを省略したオーケストラのみの演奏は決してあり得ないな、という印象を持ったほど(実際そのようです)、ダンサー=マイムがこの作品において果たす役割は非常に大きいのです。当然、現在発売されている「祈り」のCDでダンサー=マイムの動きを見ることはできないわけで、私はこの演奏に出会うまではCDに収録されていた「音」の部分しか「聴いていなかった」のですが、実演でダンサー=マイムのジェスチャーを「聴く」ことではじめてこの作品のすべてを把握し、この作品の新たな魅力に接することができたのです。
ダンサー=マイムのジェスチャーの全てはオーケストラの演奏する音の様々な属性と厳密に関係付けられています。例えば手の高さは音高、手の拡げ方はリズム、手の前後の位置がダイナミクスなどというように。全ての手のジェスチャーは世界各地の様々な祈りのポーズに由来していて、それが曲名の「イノリ」の由来ともなっています。
「祈り」の演奏の前には「HUについてのレクチャー」という講議としての作品(?)が演奏(?)されました。この作品は「祈り」の楽曲の構造やダンサー=マイムのジェスチャーと音楽との厳密な結びつきなどについて、事細かに歌、マイム、巨大なパネルなどを駆使して説明するものですが、「祈り」本体の演奏時間(70分)を上回る2時間近くを要する長大な説明を聞いた後で、この「祈り」の演奏を聴くとその作曲意図が非常に明確に分かりました。(「祈り」のジェスチャーと音楽との関係についての詳細は前述の「HUについてのレクチャー Lecture on HU」の楽譜[Stockhausen Verlag]を御覧下さい。豊富な写真、譜例なども掲載されています。)
オーケストラの音をジェスチャーで表現しているとも言えるし、ジェスチャーがオーケストラの音楽に反映しているとも言えるし、ともかくジェスチャーが音楽の1パートとして機能していてオーケストラの音楽と完全に一体化しているという驚くべき作品である訳です。
先に述べたように、ジェスチャーは音楽と厳密に関係付けられていて、「動きのセリー化」とでも表現できるのでしょうが、その素材自体が祈りのポーズから由来しているために、そのセリー的に(つまり客観的に)設定されたはずのジェスチャーが不思議と宗教的な色合いをもって見えてくるのが非常に興味深く感じられました。(補注参照)
この驚くべきジェスチャーの効果は実際に見て頂くしかないので、お伝えできないのが残念ですが、オーケストラの奏でる音楽自体も非常に魅力的であります。
特に、曲の冒頭では単音が延々と繰り返されたりするので、一見単調に感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、極めて注意深く耳をすますと極めて細かい単位(16分音符など)で1音1音オーケストレーションに微妙な変化が付けられているのが聞き取れるかと思います。また、しばしば小節ごと(ときには1小節に2回)テンポが細かく変動するので(変拍子ならぬ変テンポ?)リズムがわずかに揺らぐように感じられるところも興味深いです。
また「エコー」、「ポーズ」という部分では音楽の流れが一時的に止まり、文字どおり音の余韻を楽しむような曲想になりますが、ここで静かに鳴り響くリンの音色は日本的な美すら感じさせます。ちなみにこの部分ではダンサー=マイムが耳に手を当てたり(エコー)、腕を組んで横を向いたり(ポーズ)して、音楽的注意を喚起させます。
この作品は単音のリズム反復から始まり、ディナミーク、メロディー、和声、対位法と音楽事象がだんだん複雑になっていくのですが、ダンサー=マイムの動きもこれに応じてだんだんと複雑になっていきます。しかし、この「だんだんと」というのが半端な単位ではなく、冒頭から「対位法」と名付けられた部分のクライマックス(ここでダンサー=マイムは「HU」と叫ぶ)に到達するまで約1時間かかります。クライマックスの直前の音楽の展開は非常にダイナミックなのですが、冒頭の音楽の展開は今にも音楽が止まりそうなほど極めて遅く、この音楽をより良く体験するためには極度の集中力が要求されます。ダンサー=マイムは、この集中を助け、聴衆の音楽的注意を正しい方向に導いていく役割も担っていているのですが、単なる道しるべでなく音楽的に重要な意味を持った1パートとして機能していることは先に述べた通りです。(ダンサー=マイムのジェスチャーは五線譜上に楽譜として記譜されています。「対位法」の部分では最大3段の五線に記譜され、それぞれが左手、右手、頭の動きを表しています)
シュトックハウゼンの音楽において、演奏者の動きや、「祈り」のダンサー=マイムのパートのような視覚的な要素はますます重要となってきていますが、これらの要素は音楽的要素と深い結びつきを持っていてお互いを切り離すのはほとんど不可能です。でも考えてみれば、もともと音楽は舞踏や宗教的感情のような様々な要素と不可分な関係にあった訳ですから、シュトックハウゼンのこうした傾向は全く自然なものだと思います。
それにしてもこの「祈り」という日本語のタイトルの作品、日本で多くの部分が作曲された「マントラ」、日本滞在中に構想された「光」の連作など、シュトックハウゼンの主要作で日本にちなんだものがいくつかあるのに、日本でシュトックハウゼンの作品をめったに聴くことができない現状は非常に残念です。
「祈り」なら、しかるべき演奏者さえそろえば日本のコンサートホールで演奏することは決して難しくありません。いくつかのジェスチャーやリンの音色など日本人の多くが共感できる要素を持つこの作品が日本で演奏されればシュトックハウゼンの日本での評価も大きく変わるのにな、と思いました。
補注
逆に言うと「祈りのポーズ」という私達にとって親しみ深い要素をセリエルに変容することで、聴衆はこの親しみ安い要素を「きっかけ」にして、より抽象的な音楽構造へ聴き入ることを容易にしているともいえます。
こうした試みはすでに「テレムジーク」や「ヒュムネン」で行われていて、ここでは世界各地の民族音楽や国歌といった多くの人に親しみのある音楽が素材として取り上げられ、セリエルに変容されます。
つまりシュトックハウゼンは深く抽象的な構造へ入り込むための「親しみやすいきっかけ」を作曲の素材としてうまく使っているといえますが、こうした傾向はさらに初期の「少年の歌」や「コンタクテ」にも見られます。
ここでは人声や楽器音と電子音を結ぶある種の音色のスケールのようなものを作り、人声や楽器音といった親しみ深い要素をきっかけとして、作曲当時まだ一般的とはいえなかった電子音というものや、作曲技法としての「音色の変容」に聴衆の注意を正しい方向に向けさせる試みが見られます。
さらにシュトックハウゼンが現在使っている「フォルメル・コンポジション」という作曲技法について考えてみると、「メロディー(=フォーミュラ)」という音楽的に最も親しみ易い要素がセリエルに変容されます。
以上の話をまとめると、初期から現在までシュトックハウゼンの作曲姿勢に一貫しているのは様々な要素の「セリエルな変容」であり、時期によって「何を」変容させるのか、ということだけが違っているということです。
ごく初期においては音高、リズムなど極めて抽象的な音楽素材がセリエルに変容されていたのが(「点の音楽」)、次第に「国歌」「祈りのジェスチャー」「メロディー」など具体的で親しみやすいものが素材としてセリエルに用いられるようになり、これらが音楽の深層へ入り込むための鍵として機能している訳です。
以前にも紹介したように、このセミナーでは講師によるコンサートに加えて、選出された受講生によるコンサートが行われます。この一連のスチューデント・コンサートを聴いて、シュトックハウゼン作品の正統的な演奏解釈がしっかりと若い世代の音楽家に受け継がれていることを確信するとともに、受講生の演奏レベルの驚異的な高さに圧倒されました。
1回目のスチューデント・コンサートでは「ハルレキン」と「コンタクテ」という2つの大作が演奏されました。
「ハルレキン」は(無伴奏)クラリネットのための作品で、40分以上というこの種の編成の曲では異例な長い演奏時間を要します。そしてクラリネット奏者がアルレッキーノ風のコスチュームを着てステージ中を動き回ったり、足でリズムを叩いたりしながら演奏する非常に楽しめる作品です。見ている分には非常に楽しいのですが、単に演奏するのが既に至難なパッセージを、様々な動き(楽譜に詳細に指示されている)とともに長時間演奏し続けなければならない訳ですから、演奏者にとっての負担の大きさは容易に理解できると思います。
しかしこの「ハルレキン」はそうした演奏上の困難を乗り越えてでも演奏する喜びをもたらす作品であり、このセミナーのクラリネットの受講生のほとんどはこの大作をコンサートで演奏することを大きな目標としていました。
シュトックハウゼンが楽譜で指定している演奏家のジェスチャーは、単に奇をてらっているのではなく、音楽と密接に関連した、作品にとって極めて本質的な要素であることは良質の実演に接すればすぐに理解できると思います。
楽器を演奏する(あるいは歌を歌う)という行為はすでに肉体的行為であり、この行為と、歩いたりクルクル回ったりという肉体的行為をわざわざ区別する理由もないということでしょうか。
また、クルクル回りながらクラリネットを演奏することによって音色が微妙に変化したり、ステージを前後左右に動くことによって(当たり前ですが)音源の位置が移動する効果が作曲のアイデアとして取り入れられているのですが、これらは音楽と身ぶりの密接なつながりのほんの一例に過ぎません。
1世紀前、ヴァーグナーは音楽、美術、演劇など様々な芸術を結び付け「総合芸術」という概念を考え出し、「楽劇」という形式でその理念を実現しました。シュトックハウゼンも表面的には同じことをやっているように見えますが、ヴァーグナーと決定的に違うのは視覚的要素や演劇的要素を、音楽と「組み合わせる」のではなく、「音楽的要素の延長として」視覚的要素や演劇的要素が存在しているという点です。
「ハルレキン」や「祈り」においては、こうしたシュトックハウゼンの考えがうまく作品に取り入れられていると言えるでしょう。
一方、この日のもうひとつのプログラムであったシュトックハウゼン初期の代表作「コンタクテ」ではこれらの音楽外の要素は、銅鑼にオレンジ色の照明を当てるなど、非常に限定された段階に留まっていますが、電子音という作曲当時(1960年)非常に新しかった音響素材を極めて巧みに使いこなし、その新鮮な感覚は未だ色褪せていません。
「コンタクテ」はピアノ(打楽器も演奏する)、打楽器、電子音のための作品で、電子音は生楽器の音とミキシングされて、客席の4隅に配置された4チャンネルのスピーカーから再生されます。
この作品は題名の通り電子音と生楽器の音の「接触」が大きなテーマとなっています。つまり、電子音の音色やエンベロープをピアノや打楽器の音と関連づけて作ることによって電子音の音色がだんだん変化して生楽器の音色になったり、逆に生楽器の音色が電子音に変化していったり、というような錯覚をおこさせるような巧みな音色の操作が行われているのです(サンプラーはおろかシンセサイザーも存在していなかった時代にこのような音響操作を成し遂げたことは驚くべきです!)。
ピアノとボンゴと電子音が3声の対位法を奏でる恐るべき部分では、楽音、非楽音などといった伝統的な概念は完全に消滅しています。電子音が急激に下行グリッサンドをして音高がリズムに変容したり、ピアノのクラスターの音色が打楽器的な効果を生み出すなど、音響の様々な要素が徹底的に変容、置換され、そのプロセスが聴衆の前後左右で繰り広げられる(音の空間的な移動も作曲上のパラメータとなっている)様は圧巻です。
シェーンベルク以前の西洋音楽における作曲における「音高」というパラメータの優位(それをシェーンベルクは「12音技法」として高度に組織化することに成功した)は、この「コンタクテ」において完全に崩れさっていて、「音高」というパラメータは音色、エンベロープ、リズム、音源の空間的な場所など多くの音響のパラメータの内のひとつに過ぎなくなっている訳です。
始めに説明した通り生楽器、電子音のすべては一度演奏会場の中央のミキシング・コンソールに集められ、そこから4チャンネルのスピーカーへと送られるのですが、この「コンタクテ」のように音響の全てのパラメータが本質的な作曲要素となっている作品では、ミキシング・コンソールでの定位、音量、イコライジングの微妙なさじ加減が演奏の仕上がりに大きく影響します。同じようにマイクやスピーカーのセッティング、楽器の微妙な奏法、打楽器やピアノの種類、演奏会場の選定など楽譜に書ききれない事柄についても細心の注意を必要とします。
こうした音響に関わる多くの決定や選択を行い、ミキシング・コンソールで音量のバランスや音色の調整をおこなう人をシュトックハウゼンの作品では「サウンド・プロジェクショニスト」と呼び、かつての音楽における指揮者のように、演奏に対する最終責任を持ちます。
Stockhausen VerlagのCDをお持ちの方なら「サウンド・プロジェクション=カールハインツ・シュトックハウゼン」というクレジットがほぼすべての作品にあることにお気付きでしょうし、実際セミナーのコンサートでもほとんど例外なくシュトックハウゼン自身がミキシング・コンソールに座り楽譜を見ながら音量バランスの調整などを行っていました。
もちろんこの「コンタクテ」の演奏もシュトックハウゼンのサウンド・プロジェクションで行われました。
結果はあらかじめ予想出来たのですが、というよりその予想をはるかに超えた凄まじい演奏で、腰を抜かしてしまいました(笑)。
実はこの「コンタクテ」日本で一度聴いたことがあるのですがこのときはひどく幻滅してしまい、家でStockhausen Verlagの「コンタクテ」のCDを聴いた方が良い音がするのでは、と感じたほどでした(実際すばらしい音質の録音です)。演奏者の技量も悪くないと思ったし、このような難曲を演奏した心意気には感服したにもかかわらず、演奏全体としてのレベルが低い位置に留まってしまったのは「サウンド・プロジェクション」に対する認識が低かったからだと思います。
別にそのときのエンジニアの技術水準が低かったと言いたい訳ではなく、単にシュトックハウゼンの求めているサウンドを「知らなかった」だけだと思うのです。
シュトックハウゼンは他の作曲家以上に楽譜の情報量が極めて多く、さらにそこへ書ききれなかったことを前書きとして多くのページを割いて詳細に指示、説明をしていますが、残念ながら「こういうサウンドが欲しい」ということは文字で書けないのはお分かりだと思います。しかも皮肉なことに、その譜面に書けない情報が最も大事なことなのです! もちろん「コンタクテ」に関してはStockhausen Verlagからシュトックハウゼン公認の「正統的な」演奏、録音がCDとして発売されていますから、これを入手することによってシュトックハウゼンの求めるサウンドの近似値を知ることはできます(ただ、先程のエンジニアはそれすら聴いていない可能性も否定出来ません)。
しかし、「真のサウンド」を知るにはシュトックハウゼン自身のサウンド・プロダクション(あるいはそれを知っている人間によるプロダクション)による演奏を聴かねばなりませんし、逆に言えばそれがもっとも単純で確実な方法です。
しかもシュトックハウゼンはこの「セミナー」という形式を利用して自分の作品の正しい演奏解釈を伝えて行こうと努力しているのですから、シュトックハウゼンの演奏を志そうとする人の全てはこのセミナーを受講し、シュトックハウゼンの求めるサウンドを実際に聴く必要があるでしょう。
現在、世界中の様々な情報を容易に手に入れることができるし、遠く離れた国の作曲家の作品の楽譜を手に入れるのも難しくありませんが、(特にクラシック系の)演奏家の多くが、楽譜さえあれば何でも正しく演奏できるという奢りに近い感情を持っていることは完全には否定できないでしょう。
音楽は「記譜」という習慣ができるまでは口承で受け継がれていきましたし、記譜法が発展してからも「演奏習慣」という名の下、譜面に書かれていないことを演奏することがあるのは、バロック音楽などを演奏したことがある人なら誰でも御存じでしょう。
20世紀に入って記譜法は洗練の極みを増し様々な新しい記譜法も生み出され新しい音楽言語に対応していこうとする傾向が見られますが、結局音色や楽器の音量バランスを正確に記譜する方法は現在のところ存在せず、ここは作曲者自身の耳で判断してもらうしかない現実は決して忘れてはなりません。
そしてシュトックハウゼンは「求めるサウンド」というものを明確に持っていてその傾向は非常に一貫しています。
一言で言えば、輝きがあって粒立ちのはっきりしたクリアな音像とでもいいましょうか、最近の日本のコンサート・ホールでよくある残響の豊かで個々の音よりはむしろブレンドされたトータルとしての音がより知覚される音響の傾向とはまるで反対で、むしろロックやテクノのミュージシャンの好む音像の傾向に近いかもしれません。
今回の「コンタクテ」のサウンドももちろんこの例外ではありませんでしたが、このサウンドを徹底して成し遂げられたものは、生楽器と電子音が完璧に融合された圧倒的な音楽でした。生楽器と電子音の音量のバランスも良好で、電子音から生楽器に音色が変化していくように聴こえる部分では、どこから電子音でどこから生楽器なのか区別できないほど絶妙な音質の調整が行われていました。
本当に圧倒的な名演でそのすばらしさを言葉でお伝えできないのが残念ですが、こうした演奏を生み出すために、いかにサウンド・プロジェクションが重要かと言うことを痛感しました。
本当に日本で聴いた「コンタクテ」と同じ曲か、と思ったくらい演奏のレベルが違い(しかもこれは受講生の演奏です!)、唖然としてしまいました。
実はこうした内容のことを演奏会直後にシュトックハウゼンの横でサウンド・プロジェクションのアシスタントをしていた人に話したのですが、彼の答えは「そりゃあ、そうだろう」という感じでした。「私はシュトックハウゼンと沢山のコンサートで一緒に仕事をしているから、彼の作品、彼の求めるサウンドを良く知っている。」と自信深げにしゃべっていました。その自信に満ちた語り口から、相当細かいサウンドのセッティングをしているのだな、というのは容易に推測出来ました。
ちなみに彼は数年前のマウリツィオ・ポリーニの来日公演における「少年の歌」「コンタクテ(電子音のみの版)」の上演でサウンド・プロジェクショニストを努めたこと、そしてその演奏会場であったサントリー・ホールをすごく気に入ったことも語ってくれました。
ピアニストのエレン・コルヴァー、オーボエ奏者のキャサリン・ミリケンという二人の女性講師によるコンサートではシュトックハウゼンの初期の作品から近作に至るまでの幅広いレパートリーが演奏されました。
実際のプログラムではピアノ作品とオーボエ作品が交互に演奏されましたが、ここでは演奏者ごとに感想を書きたいと思います。
まずはキャシー・ミリケンによるオーボエ曲の演奏から。
彼女が始めに演奏したのはシュトックハウゼンの独奏曲の定番と言える1977年に作曲された「友情に In Freundschaft 」です。この曲は単音しか出せない楽器の独奏で、対位法的なテクスチュアを実現し(シュトックハウゼンは「ホリゾンタル・ポリフォニー」と呼んでいます)、それぞれのレイヤー(声部)の間でフォーミュラを少しずつ交換していくという、聴取に際して極度な集中力を要する作品ですが(勘の鋭い人なら、この「交換」プロセスに最初期の「クロイツシュピール」との関連性を認めるでしょう)、その作品の構造を視覚的に補うために演奏者は楽器を上下左右の様々な方向に向けます。
この動きはしばしば急激なものとなるので(0.5秒くらいの間に左下から右上に動かすなど)、単に書かれている音符を演奏するだけでも難しいこの曲の演奏をさらに困難にしますが、そうした高度な作曲者の要求にかなう素晴らしい演奏を披露してくれました。
次に演奏されたのが、この日のプログラムの中でもっとも近作にあたる「オーボエ(1995/96作曲)」でした。
この作品は「光」の「水曜日」の「オルケスター・フィナリステン Orchester-Finalisten 」という部分の抜粋で、オーボエ奏者と電子音楽によって演奏されます。
5分あまりの短い作品でしたがこの日のプログラムで最も印象的な作品でした。
この作品のオーボエパートは通常の五線の下にグラフで指示された異様に細かいダイナミクスの変化、1小節ごとに細かく変わるテンポ、様々なジェスチャーなど、相変わらずの超絶技巧を要する難曲ですが、そうした困難を全く感じさせないエレガントな演奏でした。
白昼夢のような、シンプルながらも神秘的な照明も素晴らしかったです。
しかし何といってもこの曲を大きく特徴付けているのはオーボエと同時に演奏される電子音楽です。
正確には電子音楽というよりはミュージック・コンクレートというのがより適切かもしれませんが、1950年代から電子音楽の様々な可能性を追求してきたシュトックハウゼンの辿り着いた究極の美がここに存在しています。電子音楽とオーボエの音は相対するものとして存在するのではなく、長年の友達のように親しく寄り添うように調和が取れていました。
この部分を含む「オルケスター・フィナリステン」の演奏がStockhausen Verlagから発売されています(全集52)ので、この天国的な美しさをたたえたこの音楽を未体験の方は是非ともお聞き下さい。
話は講習会からずれますが、シュトックハウゼンは近年、信じられないような美しい作品を次々と作曲しています。「オルケスター・フィナリステン」と同じく「水曜日」の冒頭で演奏される「世界議会 Welt-Parlament (1995年作曲 全集51)」や、「光」の完結作「日曜日」の「光-水 Lichter-Wasser (1998-99年作曲 全集58)」などの音響の美しさを「ヘリコプター弦楽四重奏曲(1992/93年作曲 全集53)」の豪快な音響しか知らない人が体験すると大きなショックを受けるのではないでしょうか?
キャシー・ミリケンはあともう一曲「螺旋 Spiral」を演奏しました。
この1968年に作曲された作品は、一人のソロイスト(どんな楽器、声を使っても良い)が短波ラジオを使いながら演奏する作品で、特殊な記号で記譜された楽譜に基づき、短波ラジオから聴こえる音を演奏者が楽器や声を使って模倣、変形していく非常に特殊な演奏能力を要する作品です。
彼女はこの作品を演奏するためにオーボエに加えてディジリドゥーと声、ディレイなどの様々なエフェクター(フット・コントローラーで操作)を使っていました。
この曲やその他の短波ラジオを使った一連の作品は、一般にはどちらかと言うと短波ラジオを操作することによって生じるコラージュ的効果や電子音楽風でノイジーな音響の方ばかりが注目されているように私は感じるのですが、実際はそうしたサウンドは演奏のきっかけと音響的装飾としての役割に過ぎず、むしろ演奏者がそのサウンドをどのように変形していくかというプロセスに耳を傾けるべきだと感じました。
短波ラジオから流れてくる様々な日常的な音を演奏者が全く耳なれない抽象的な音響に変容させる、という点では以前にも触れた「少年の歌」「コンタクテ」「テレムジーク」「ヒュムネン」などと考え方は同じですが、この「螺旋」では、そのプロセスがソロイストによってリアルタイムで実現されるため、演奏者の感性によって演奏に対する印象が大きく変わるところが非常に魅力的です。
それにも関わらず、変形のプロセス自体はきちんと記譜されているのでどの演奏を聴いてもシュトックハウゼンの作品である、という作品の同一性が保たれているところも興味深いです。
それで、キャシー・ミリケンの演奏ですが、短波ラジオによるノイジーな音響、というイメージからは最も遠い、エレガントでしばしばユーモアも感じさせる軽やかな演奏でした。
怖ーいゲンダイオンガクの最も怖ーい親分シュトックハウゼン、というイメージを持っている方からは想像もつかないかもしれませんが、セミナー中の演奏会場の客席ではしばしば笑い声が聴こえていました。
作品の無理解による嘲笑ではなく、作品のユーモラスなところに自然に反応しての好意的な笑い声です。
「螺旋」の楽譜の中には「螺旋記号 Spiral-Zeichen」と呼ばれる記号を使った部分があり、ここでは直前の(音楽的)イヴェントを何度か繰り返すのですが、その際に全ての音楽的パラメーターをそれまでに演奏した楽器や声のテクニックを超えるまで、もしくは楽器や声のテクニックの「限界を超越する」までに変化させることが求められています(注1)。
この部分では(楽器や声の限界を超越した延長線上としての)視覚的、あるいは演劇的なイヴェントを使うこともできますが、今回の演奏ではずっと演奏をしていた場所から離れて、ちょっとしたダンス(?)のようなことをやっていました。
彼女はこの「螺旋」をシュトックハウゼン全集CD(45巻)に録音していますが、「人間シンセサイザー??」ミヒャエル・フェッターが、記譜されたすべての部分を超絶的なヴォイス・テクニックを使って演奏した2時間に及ぶヴァージョン(全集46)も天才的で変態的な仕上がりで、これを聴かずに「螺旋」を語るべからず、と個人的には思っています(注2)。
[注1]
この独特な演奏指示の表現方法は、「螺旋」の数カ月前に作曲された「7つの日より」における幾分神秘的な雰囲気を持つ詩のようなテキストによる演奏指示からの影響だと思われます。
ちなみに、余り知られていないことですが、一連の短波ラジオを使った作品群「短波」「螺旋」「ポーレ」「EXPO」と「7つの日より」と「来るべき時のために」の2つの直感音楽の作品集は同時期に並行して作曲されています。
1968年初頭「短波」
1968年5月「7つの日より」
1968年9月「螺旋」
1968年8月〜1970年7月「来るべき時のために」
1969/1970年「ポーレ」「EXPO」
一連の「短波もの」と直感音楽との間には、作曲時期が同時期である、という以上の作曲上の共通点も存在します。
直感音楽で使われているテキストをよく読んでみると、「宇宙のリズムで演奏せよ」などといったちょっと怪し気(?)な趣を持った表現がしばしば見られるにも関わらず、音楽的イヴェントをどのように変容させていくか、という点においては「短波もの」とそれほど大きく違いがある訳ではないことが分かります。
「7つの日より」の全集CD(第14巻)の解説に、シュトックハウゼン自身がテキストからどのように演奏の内容を決定していくか、というプロセスが書かれていますが、非常に具体的且つ論理的に演奏内容を決定していることが良く理解できます。
つまり、「短波もの」と直感音楽の間には演奏のきっかけとして短波ラジオから聴こえる音響を使うか、「超意識」が感じるものに従うか(心を一種のラジオとして捉える)という違いはあるものの、そのきっかけとして得た音楽的イヴェントの変形プロセスの考え方には共通する部分が多く、「直感音楽」という概念はその表面的な語感に反して、実は非常に論理的な音楽であり、1950年代以来のセリー的な思考の延長線上に位置すると考えることもできるものなのです。
なお、直感音楽第2集の「来るべき時のために」と、現在まで続くフォルメル・コンポジションによる最初の作品「マントラ」(1970年5月〜8月作曲)の作曲時期が重なっているという事実も非常に興味深いです。
[注2]
「光」の「水曜日」の最終場面「ミヒャエリオン」では短波ラジオを伴った歌手が登場しますが、このパートをミヒャエル・フェッターがこの場面の初演の際に受け持った様です。(音楽自体は私は未聴です。CD化もされていません。)すでにCD化済み
エレン・コルヴァーは今回の講習会において、1950年代の名曲「ピアノ曲I~V, XI」を演奏しました。まずI~V番を続けて演奏し、キャシー・ミリケンのオーボエ曲の演奏を挟んでXI番を一度、それから休憩後にもう一度XI番を演奏しました。
「光」の一部分として作曲されたXII番以降(現在XVII番まで作曲されています)ではピアノの音をマイクを通して増幅する前提で作曲されているのですが、それ以前に作曲された今回の作品もマイクを通して演奏されました(というかシュトックハウゼンはいつもそうしているのだと思います)。
このお陰で曲の細部までもらさず聴き取ることが可能となり、エレン・コルヴァーのシャープな演奏をストレスなく楽しむことができました。
クラシック端の演奏家には、マイクやPAなどに極端な嫌悪感を示す人が少なくありませんが、2000人近く収容できる大ホールでの残響まみれで細部の聞き取れないアコースティック・ピアノの演奏会のあり方に疑問を持っていた私にとっては、大いに納得できる措置だと感じました。
もう一つ興味深かったのが、XI番の演奏です。
この作品は大きな紙に19の楽譜の断片がちりばめられていて、それを任意の順序で演奏していく作品で、当然演奏によって作品の様相は大きく変化します。そして、単に断片から断片へと演奏していくのではなく、テンポ、ディナーミク、音域、アタックなどを細かいルールに瞬時に従って変化させなければならず、一見演奏者に大きな自由を与えているようでいて、実は演奏者を巧みにコントロールしているという恐ろしい作品であるともいえます。
この曲の作曲当初においては、例の巨大な楽譜を無理矢理ピアノの譜面台に置いて演奏していたのだと思いますが、今回の演奏に際してエレン・コルヴァーが手にしていたのは普通の大きさの楽譜でした。
つまり、あらかじめ、その時に演奏するヴァージョンを確定された譜面に書き直してから演奏した、と言うことですが、これは瞬時に様々なパラメーターを判断して演奏することによって起こりがちな演奏レヴェルの低下の防止を目的としたものだと思われます。
演奏者に大きな選択の余地は与えるが、それを本番で即興的に実現するのではなく、あらかじめ自分自身のヴァージョンを作っておくという考え方は、ピアノ曲XV番以降に取り入れられていますがこのことについては、別の機会に説明致します。
さて、この演奏会にタイミングを合わせるかのように、エレン・コルヴァーの演奏による「ピアノ曲I~XIV」の3枚組CD(全集56)が発売されたので、講習会会場のStockhausen Verlagの売店で手に入れました。(私が実際に払った価格は約6000円、でも東京のタワーレコードだとほとんど2万円します。このひどい価格差なんとかならないでしょうか・・・)
早速日本から持ってきていたCDウォークマンで聴いてみましたが、このチープな再生装置でも録音の良さが十分に分かる恐ろしく完成度の高いCDでした。
解説を読んでみると、一番低い鍵盤の音は最も左、一番高い鍵盤の音は最も右という定位、つまり聴いている人があたかもピアノの椅子に座っているかのような感覚を起こさせるようなミキシングを施していて、この録音効果を最大限発揮できる様、付録としてスピーカーの調節用のテスト音源まで収録されているという手の込みようでした。
特にXIII番では様々な特殊奏法が頻発するのですが、内部奏法の箇所では演奏している弦の位置からきちんと音が聴こえてきますし、鍵盤の両端に取り付けられたインディアン・ベルももちろん左右から聴こえてきます。
録音に関してもう一つの特徴は極端にダイナミック・レンジが広いことです。シュトックハウゼン自身も解説の中で通常よりもオーディオ装置のヴォリュームを少し上げて再生することを求めていますが、確かにサウンドが異様な迫力で聴こえてきます。
演奏が素晴らしいのはもちろんですが、この異常なまでにこだわった録音はシュトックハウゼンファンだけでなく、オーディオ・マニアにも大きくアピールするものがあると思います。
今回のセミナーのコンサートで「3xREFRAIN 2000」(以下「3×ルフラン」と表記)という作品が世界初演されました。
「3×ルフラン」は厳密には全くの新作ではなく、1959年に作曲された「ルフラン REFRAIN」の派生版です。
この「オリジナル」ルフランは特殊な形の楽譜に記譜されています。巨大なシート状の楽譜の上に細長い長方形の透明プレートが取り付けられていて、この透明プレートは楽譜の中央を軸として時計の針のように(10時から2時の角度の範囲で)回転させることができます。
そしてこの透明プレートにはクラスターやグリッサンド、トレモロなどの記号が書き込まれているので、この透明プレートを動かすことで、これらの音形が演奏される位置を変えることができます。
実際の演奏では、あらかじめその時の演奏で使用する透明プレートの角度を決定して、透明プレート上の様々な演奏記号のルールに従い、その時の演奏でのヴァージョンの楽譜をリアリゼーションしますから、基本的にどの演奏でも全体的な印象としては同じですが、細部においては演奏ごとに大きな違いがあるということになります。
「ルフラン」はピアノ、ヴィブラフォン、チェレスタ(と補助的な楽器、声)の3人の奏者のために作曲されていて、基本的に残響の美しさを楽しむような静的なテクスチュアが支配的なのですが、それが透明プレートに記譜されたクラスター、グリッサンド、トレモロなどの動的な音響からなる「リフレイン(=ルフラン)」によって6度中断されます。
透明プレートの角度が演奏ごとに異なるということは、音響的にはこのルフランの挿入される位置が演奏ごとに異なる、ということになるので、何種類かの演奏を聴けばこの作曲上のアイデアを理解することができます(詳しい「ルフラン」についての解説は全集CD第6巻の解説をお読み下さい。充実した譜例も付いています)。
そして、それを効果的に実現したのが今回の「3×ルフラン」という訳です。この作品は「ルフランA」「ルフランB」「ルフランC」という3つのルフランのヴァージョンとそれぞれの演奏の前後に行われる作品の説明とで成り立っています。「ルフランA」は透明プレートが最も左、すなわち10時の方向、「ルフランB」は中央、すなわち12時の方向、「ルフランC」は最も右、すなわち2時の方向のヴァージョンで、シュトックハウゼンによって確定的な楽譜として記譜されていますから、「オリジナル」ルフランでの、演奏によって楽譜が変化するというコンセプトはここでは消滅しています。
その代わりヴァージョンを確定したことによって、説明の中で、ルフランAではこういうように演奏されるが、ルフランBではこのようになる、という風に、それぞれのヴァージョンの違いを実際の音例によって比較することが可能になったので、「ルフラン」の作曲上のコンセプトが非常に理解しやすくなっています。
ただ、収穫だったのは「ルフラン」の作曲上のコンセプトを3種類の演奏を通して理解する、ということよりも、むしろ「ルフラン」が生演奏で聴けた、ということです。
先にも述べたように「ルフラン」では各楽器の残響音の美しさが大きな特徴となっていますが、残念なことに全集CD(第6巻)に収められている録音はその演奏の素晴らしさにも関わらず、(シュトックハウゼン自身も認めているように)その音質が様々な時間的、技術的な制約のために十分な満足のいくクオリティを達成していないのです。
そういう訳で、今回シュトックハウゼン自身によるサウンド・プロジェクションによる素晴らしい演奏を聴くことによって初めて、この作品の真の美しさを知ったといっても過言ではない深い感銘を受けました。
この演奏のリハーサルを聴くことができたのですが、はじめはピアノやサンプラー・チェレスタ(注3)のこだわりのマイクチェックです。
奏者に何度も半音階で全ての鍵盤を弾かせてシュトックハウゼンはイコライジングの設定を細かく調整します。サンプラー・チェレスタの奏者にはその場でプログラミングをやり直させていました。
そして舌のクリック音、補助楽器などのマイクチェックを経て作品自体のリハーサルに入ったのですが、これが異様に細かいリハーサルでした。
ピアノとウッドブロックを同時に演奏する、或る一つの音符の箇所では粗の2つの楽器のバランスを取るために何度も演奏させたりと、そうした細かいチェックが延々と続くのです。
このようなリハーサルの積み重ねにより高度な演奏が実現できたのですが、この時の3人による演奏が講習会終了直後に録音され、最近Stockhausen VerlagからこのCDが発売されました(全集62)。
もちろん初演時同様のシュトックハウゼン自身の肉声による説明つき(注4)で、演奏も当然素晴らしい出来です。
録音も旧録音とは比べ物にならないくらい異様にクリアーな音質で、旧録音の欠点としてシュトックハウゼンが具体的に挙げていた、掛け声や舌先のクリック音の不明瞭さといった問題もここではあっさりと解決され、非常に明瞭な各楽器のアタック、繊細な残響音など気持ち良いくらい見事にCDに収められて、何度もリピートして聴きたくなる素晴らしい録音です。
それで、何度も聴き返して気が付いたのですが、どのヴァージョンでも同じはずの曲の最後の部分が「ルフランC」だけ少し違っているのです。
曲の解説にも何も書いていないので、どういうことだろう、とスコアを見ながら聴いてみると「ルフランC」の結尾の和音の前に、楽譜に書かれていないコラール風のパッセージが挿入されていたのです。
この部分だけは「3×ルフラン」の作曲の時に書き足したものだと思われますが、ちょっとしたサービス、あるいはシャレとして挿入したのでしょうが、敢えて何も説明せずさりげなく、というのがいかにもお茶目でおかしいです。
[注3]
「サンプラー・チェレスタ」とはサンプリングされたチェレスタの音色を演奏するためのシンセサイザーのことです。もともと「ルフラン」のこのパートはチェレスタのために書かれていましたが、ピアノやヴィブラフォンとの音量のバランスをとったり、アコースティックなチェレスタでは実現不可能な長いディケイを達成するためにサンプラー・チェレスタで演奏するようになりました。ステューデント・コンサートでオリジナル「ルフラン」を演奏したグループがありましたが、ここでもチェレスタではなくサンプラー・チェレスタが使用されていました。
[注4]
シュトックハウゼンはもともと説明好きなのだと思いますが、最近はそうした嗜好が全集CDに反映されてきています。
「3×ルフラン」の直前に発売された「リタナイ97」のCD(全集61)でも演奏の録音の前にシュトックハウゼンの肉声による作品説明が収録されていますし、さらにその前に発売されたエレン・コルヴァーによる「ピアノ曲I〜XIV」のCD(全集56)でも、オーディオ機器の調整用に付録として収録されたテスト用音源の説明をCD上で行っています。
さらに遡ると「ヘリコプター弦楽四重奏曲」(全集53)の世界初演のライヴ録音でも演奏の前後に「司会」という形で、作品や演奏者の紹介、ちょっとした実況中継、演奏者、聴衆を交えてのディスカッションなど、シュトックハウゼンの肉声、ちょっとした冗談などを思う存分(?)楽しむことができます。
シュトックハウゼン講習会において、私は声楽の受講生としてバス歌手のニコラス・イシャーウッドのレッスンを受けたり、同じクラスの他の受講生のレッスンを聴講したりしましたが、このクラスの代表としてアメリカ人の二人のソプラノ歌手がステューデント・コンサートに出演することになり、「私は空を散歩する」を演奏しました。
この曲は二人の歌手のための40分以上の長大な演奏時間を要する大作で様々な特殊な唱法に加えて(シュトックハウゼンの作品にはよくあることですが)一種の演劇あるいは儀式的なジェスチャーが要求されます。これらはもちろん楽譜に細かく指定がされているのですが、演劇的な要素に関しては、やはり作曲者本人、あるいは作曲者と親しい関係にある演奏者に指導してもらうのが最も望ましいことはいうまでもありません。
ニコラス・イシャーウッドは『光』の「月曜日」「火曜日」「金曜日」のそれぞれの初演においてルツィファー役を歌っているシュトックハウゼンからも信頼の厚い歌手で、今回の講習会では「シリウス」を演奏しました。今回受講生が演奏した「私は空を散歩する」に関してもニコラスはメゾ・ソプラノ歌手とのデュオでCDを録音していて(modeレーベルから発売されています)、その録音のためにシュトックハウゼン自身より演奏法のレッスンも受けていますから、ニコラスによるこの作品のレッスンは非常に興味深いものでした。
講習会に参加するまでのこの曲に対する印象は、歌手のデュオ(もちろん無伴奏)ということもあり、ちょっと地味な曲だな、という感じだったのですが、実際にこの曲の演奏を「見て」聴くことによって、音だけでは分からなかったこの曲の面白さを十分に味わうことが出来ました。
これは、音楽だけだとつまらない、という否定的な結論を導くものではなく、「シリウス」や「祈り」でもそうでしたが、音楽とジェスチャーなどの視覚的要素が緊密に関わり合っているからこそ生演奏を体験する必要がある、ということです。
さて、この作品は、様々な特殊唱法が要求されますが、記譜されているのは「どこで」その唱法を使うかということだけで、「どんな」唱法で「何を」演奏するかは演奏者に任されています。また、この作品は12の部分から成り立っていますが、各部分のテンポ及びダイナミクスはシュトックハウゼンが提示しているそれぞれ12種類のキャラクターを演奏者が自由に組み合わせることも要求しています。
つまりシュトックハウゼンは演奏者に単に音符を読んで演奏するだけでなく、演奏者に様々な要素を事前に決定することを要求することにより、演奏者の自由なアイデアやイマジネーションを喚起するように目論んでいる訳です。
ニコラスは声楽以外に演劇の専門的な教育も受けているのですが、そのためか、このような(シュトックハウゼン作品に良く見られる)演奏者それぞれのヴァージョンを作る、という過程に非常に興味があるようで、単なる、ああしろ、こうしろ、というレッスンではなく、生徒に様々なことを自発的に考えさせるようなレッスンで、聴講している人の出したアイデアを演奏に取り入れるような場面もあり、創造性を大きく刺激される有意義なレッスンでした。
私はこのクラスにおいて「ティアクライス」を勉強しました。この作品も12の短いメロディーを自由にアレンジしながら何度か繰り返すという、演奏者のアイデアやイマジネーションを要求する作品ですが、レッスンでは私が提示したアイデアに対してニコラスが、「こういうのはどうだ?」というような感じでそのアイデアをさらに発展させ、今度は私がそれに自分なりの考えを付け加えて再提示するというような、非常に興味深いプロセスを体験することが出来ました。
(私の提示したアイデアはニコラスや、もう一人の声楽の講師であるアネット・メリウェザーに高く評価してもらうことができ、アネットには私のヴァージョンはきっとシュトックハウゼンにも気にいってもらえるはずだ、と非常に嬉しいコメントをもらいました。現在も次回の講習会に向けて「ティアクライス」を勉強し続けています。)
ともかく、シュトックハウゼンはそうした音符以外の演奏指示をかなり細かく楽譜に書き込んでいるのですが、それでも書き切れていない要素も沢山ありますし、ジェスチャーなどの視覚的な要素は楽譜に何も書かれていなくても暗にそうしたことを明らかに好む傾向があったりと、直に演奏法の指導を受けなければ分からないことを沢山学ぶことができ、大きな収穫となりました。
考えてみると、本来演奏の伝統というものはそのようにして作られるものですね。ベートーヴェンにしてもマーラーにしても必ず作曲者自身から演奏法の指導を受けた人物がいる訳で、そこから演奏の伝統が型作られることによって作曲者のいない現在においても楽譜を見るだけで適切な様式で演奏できるのです。それは楽譜というものが非常に大きな価値を持っているシュトックハウゼンの作品ですら例外ではありません。
むしろ、従来存在していない新しい演奏法をしばしば要求しているのですから、現代音楽だからこんな感じで、というのは御法度と言えるでしょう。
この講習会はコンサートも非常に魅力的ですが、それだけでなく作曲者自身が求める正統的な演奏解釈を集中的に学ぶことができる、という点でも大きな価値があり、逆にシュトックハウゼンの求める演奏解釈を学ぶことによって、シュトックハウゼンの音楽自体の理解が深まる、ということも言えます。
どの作曲家でも自分の作品を誰かに演奏してもらう時に自分の作品の演奏法というものを演奏者に伝授するものですが、シュトックハウゼンの素晴らしいところはそうした機会を世界中の人に開放している、ということです。
ちなみに、私は運良くシュトックハウゼンと少しだけ話をすることが出来たので、「ティアクライス」の演奏法についていくつか質問をしたのですが、「自分自身のヴァージョンを作ることによって、君がどのようにこれらのメロディーを分析したか聞かせてくれ。」というようなことを言われました。
こういう言葉を聞くと、シュトックハウゼンのいくつかの作品に見受けられる「自分のヴァージョンを作る」という作業が作曲者との対話のように思えてきて、この偉大な作曲家が良い意味で非常に身近に感じられるようになりました。
また、短時間ながらも直接話をした印象では、誇大妄想にとらわれたクレイジーな作曲家というイメージは全くせず、田舎のちょっと頑固だけど気のいいオジさんという印象を受けました。
それにしても私はなんという素晴らしい体験ができたのでしょうか。
まさに「私は空を散歩する」気分でした。
そうそう、横柄にもサインまで要求してしまったのですが、気楽に応じてくれました。
ちなみに、私の声はバリトンですがもう一人のバリトン歌手か、メゾ・ソプラノ歌手がいればこの「私は空を散歩する」を演奏できます。私と一緒にこの曲を演奏してみたいという奇特な方がいらっしゃいましたら、私まで御連絡下さい。
シュトックハウゼンが現在取り組んでいる壮大なプロジェクト「光」は一種の超オペラとしての全曲上演の他に、それぞれの部分を独立した作品として上演することも可能であり、本講習会でも、そうしたヴァージョンが何曲か演奏され、これまでCDによって音とブックレットの写真でしか体験できなかった「光」を、ほんの一部分ではありますが、ともかく実際に「体験」できたのは非常にエキサイティングでした。
その中でも比較的規模の大きい作品としては、「ピアノ曲XII(木曜日)」、「カティンカの歌—ルツィファーのレクイエムとしての(土曜日)」、「コメット(金曜日)」が演奏されましたが、中でも「コメット」は初演ということもあり大きな注目を集めました。
この作品は、「ピアノ曲XVII」としてのキーボード奏者のための版と、打楽器奏者のための版の2つのヴァージョンが存在しますが、どちらのヴァージョンもソリストが背景に流される電子音楽と共演します。
ソリストは楽譜に大まかに指定された音高を用い、自分自身のヴァージョンを作成して演奏するのですが、今回の演奏では2つのヴァージョンを比較して聴けるような構成になっていましたので二人の演奏者の個性の違いを楽しむことができました。
演奏する音色に関しては、おもちゃっぽい音(あるいはおもちゃの音のサンプリング)を演奏者が任意に選択するのですが、この演奏指示から、演奏者に対して、テクニックではなく、創意やユーモアを引き出そうとするシュトックハウゼンの意図が良く窺えます。
今回の演奏では打楽器のヴァージョンの方が楽しめましたが、後日発売されたこの曲のCDを聴いてみると、キーボードのヴァージョンの良さは、一度聴いただけではよく理解できていなかったことが分かりました。
「コメット」のもととなった「金曜日」のシーンでは電子音に合わせて2声の児童合唱が演奏し、そこにキーボード奏者が注釈をつけるような形で演奏します。この場面では白人の子供と黒人の子供がおもちゃの武器をもって戦争するのですが、キーボード奏者はそのおもちゃの武器の音を表現している訳です。
「コメット」では児童合唱の部分をカティンカが多重録音して電子音楽に重ねて再生しているのですが、この曲の面白さを味わうためには、このカティンカの歌声にソリストがどのように注釈を付けるか、という観点から聴く必要があったのです。
ソリスト+電子音という組み合わせだと、どうしてもカラオケっぽい感じでソリストメインに聴きがちですが、この作品(に限らず他の多くの作品でもそうですが)ではその主従関係を逆転させた聴取を必要としていると言えます。
それにしても、ここで聴かれるカティンカの日常的な感覚をはるかに逸脱した歌声はかなり強烈なインパクトを与えます。彼女は本来フルーティストなのですが、「光」のところどころで彼女の歌声やかけ声が効果的に使われています。
特に「金曜日」では「演劇的な」シーンの間に演奏されるテープによる「サウンドシーン」でカティンカの歌声が大活躍するなど、かなりの重要性を与えられています。
このサウンドシーンはシュトックハウゼンとカティンカが2重唱をしてそれを様々な具体音(犬の鳴き声、タイプライターなど)で複雑にモジュレートさせるのですが、厳密に記譜されているにも関わらずとてもそのようには聴こえない非常に自由奔放な印象を与えます。
このサウンドシーンだけでは本来は独立した作品としては演奏出来ないのですが、この部分だけを聴いてみたい人のために「PAARE vom FREITAG」と題されたCDも発売されています。このサウンドシーンは様々な形態の男女のカップル(動物や「もの」のカップルも登場します)を表現していてシュトックハウゼンとカティンカの声はそのまま男女の声を表現しているのですが、このCDを聴いていると、正直かなりムフフな気分になってしまいます(謎)
性的には非常にオープンな姿勢を持っているシュトックハウゼンの本領発揮といったところでしょうか。。。
ちなみにこの「サウンドシーン」の抜粋をピアノやシンセで自由に注釈をつけていく、「ピアノ曲XVI」という作品もあり、こちらもかなりの逸品であります。
この曲はポリーニが絡んでいるイタリアのあるピアノのコンクールの本選の課題曲として委嘱されたのですが、思いきり伝統的なコンクールの課題曲のイメージから逸脱していて(テクニックより創意が要求される訳ですから)、コンクールの審査員はさぞかし困ったことでしょう。
ここで紹介したピアノ曲XVI、XVII(「ピアノ曲」という訳はもはや正しくありませんが)は「Flute and Synthesizer」と題されたCDに収録されています。
この「コメット」以外でもっとも話題を集めた作品は「土曜日」の第2場そのものである「カティンカの歌_ルツィファーのレクイエムとしての」でしょう。
この作品はシュトックハウゼン講習会に何度か参加している受講生による打楽器アンサンブルとフルートの受講生によって演奏されました。
フルートはともかく、6人の打楽器奏者によって演奏されるパートには非常に驚かされました。この6人の奏者は客席を取り囲むように配置されますが、この一人一人の格好が物凄いのです。何と表現したら良いのか、、、とにかく全身に奇妙なオブジェのように見える自作楽器と思われるものを見にまとい、まさに演奏者自身が巨大な楽器のようになったような奇怪な格好をしているのです。
初めは聴衆からは全く気付かれないように隠れているのですが、音楽が進む度に一人ずつスポットライトを浴びて姿を見せながら演奏を始め、最終的にはこの6人全員がステージへと移動していきます。
音響的には四方からヴァレーズを思い起こさせるような打楽器の音響が複雑に響き渡るという感じですが、この響きがかなり絶妙でした。
日本では、この「光」があまりにも神秘主義という側面から語られ過ぎるきらいがあるのですが、私がこの講習会で見た「光」のイメージは、神秘主義というよりは「メルヘン」といったところでしょうか?題材としてはヴァーグナーの「指輪」の壮大な世界というよりはモーツァルトの「魔笛」のような楽しい世界をイメージしました。
もちろん、ミカエル、ルシファーなどといったいかにも、といった天使たちが主要なキャラクターとして登場しますし、「火曜日」ではこの二人は善と悪の象徴として壮絶な音響とともに戦いを繰り広げたりするので、一概に楽しいとも言えないのですが、実演に接してみれば思った以上に親しみやすいことを納得出来ると思います。
たった1週間のシュトックハウゼン講習会でしたが、あまりにも内容が濃密で、このレポートを書くのにほとんど1年近くを費やしてしまいました
滞在先のホテル(というよりは民宿)では朝食は1階の広い部屋で他の受講生と一緒に食べましたので、当然その時の話題もシュトックハウゼン。朝から晩までシュトックハウゼンの音楽を聴き演奏し分析をし、という感じでホテルに戻るのが11時頃。とにかく目がさめている間はシュトックハウゼンの音楽のことだけ考えているというような状態でした。
このように書くとなんだか洗脳じみているように感じる人もいるかもしれませんが、シュトックハウゼン本人を初めとして、講師、受講生ともに個性と人間味に溢れた人たちばかりでとても暖かい雰囲気を醸し出していたと思います。演奏会には地元の住民の方(子供も含む)も多数押し掛けるなど、現代音楽のコンサートにありがちな閉鎖的な雰囲気というものが皆無だったというのも驚きでした。
音楽自体に対しては非常に高い要求をされる厳しい場所ではありますが、いわゆる馬鹿話的な思わず笑っちゃうような楽しいことも沢山ありました。ちなみに講習会の最終日にはささやかな打ち上げ会も催され、講師、受講生の大半が参加してなごやかな雰囲気で濃密な1週間は幕を閉じました。
予想以上の収穫だったので、私は今年の講習会にも参加する予定ですが、私の拙い文章を読んで、この講習会、あるいはシュトックハウゼンの音楽に興味を持っていただける人が一人でも増えることを祈っています。