シューベルト作品は、その転調技法の斬新さに大きな特徴がある。一気に遠隔調へと転調することによって、音響の色彩感を変化させるセンスは、ドビュッシーを先取りしていると言っても過言ではないだろう。そして、その転調が、しばしばメロディーのわずかな変容によってもたらされているのもシューベルトの特徴である。
例えば初期の有名な歌曲『野薔薇』の冒頭(楽譜の上部のアルファベットは調性を表す。大文字は長調、小文字は短調)
re-do-do-si-laという音形が繰り返される時、doが半音上がるという最低限の変化だけで属調への転調を実現している。
こうした技法は、最晩年の『ピアノ・ソナタ変ロ長調』D 960において極めて洗練された形で現れる。
ソナタ形式で作曲された第1楽章は次のようなメロディーで始まる(第1主題aとする)。
このメロディーは変形されて、次のような形で現れる(第1主題bとする)。
si-la-si-do-reというシンプルなメロディーの変位だけで、変ロ長調のメロディーが変ト長調へと変化している。
この後、変ロ長調に戻り、再び第1主題aが提示される。
第2主題は、提示部において属調(変ロ長調の場合はヘ長調)で提示されるのが標準的であるが、この作品では変ロ長調、ヘ長調のいずれからも遠隔調にあたる嬰ヘ短調で提示される(第2主題aとする)。
この提示の後、いくつかの調を経由し、変ロ長調の属調であるヘ長調に到達し、次のメロディーが演奏される(第2主題bとする)。
第2主題aとbは一見別のメロディーのように見えるが、付点(あるいは複付点)を使ったリズム構造はほぼ同一、ピッチ構造もdo-la-sol-faという骨格は同じで第2主題bはaを変形したものと解釈できる。ここでもメロディーの変位による転調の技法が駆使されている。
ところで、シューベルトはなぜ第2主題を嬰ヘ短調という奇妙な調性から始めたのか? これは、提示部と再現部の調性構造を見てみると、その狙いが明らかになる。以下の譜例はそれぞれの主和音である。
それぞれ、1つ目の和音が第1主題a、2つ目と3つ目の和音が第2主題a、bである。このように見れば、一見唐突に思えた第2主題aの主和音も、伝統的なソナタ形式の第2主題で使われる属調の主和音を変位させたものであることが分かる。ちなみに第1主題aの変ト長調の(異名同音の)同主短調が第2主題aの嬰ヘ短調であることも指摘しておこう。
もう一つ注目しておきたいのは、伴奏部分のリズム構造である。この楽章ではほとんど全ての部分で、何らかの音価がパルス的に繰り返されているが、その音価が主題ごとに変化し、体感テンポを変化させている。調性と基本パルスの変容を組み合わせることで音楽の色彩感を豊かにしようという意図がここに感じられる。
テーマ | 調性 | 基本音価 | 1拍の分割数 |
第1主題a | 変ロ長調 | 8分音符 | 2 |
第1主題b | 変ト長調 | 16分音符 | 4 |
第1主題a | 変ロ長調 | 3連符 | 3 |
第2主題a | 嬰ヘ短調 | 3連符 | 3 |
第2主題b | ヘ長調 | 16分音符 | 4 |