マーラー「告別」ピアノ版出版譜における重大な問題

 マーラーの「大地の歌」には、彼の他の歌曲作品と同様、オーケストラ版とピアノ版の二つが存在する。ピアノ版は、オーケストラ部分を編曲したピアノ・リダクション版ではなく、マーラー自身が別ヴァージョンとして編んだものだ。

 ただし「大地の歌」は作曲者晩年の作品で、生前の初演もかなわず、遺されたピアノ版の楽譜も決定稿の状態に到達したとは感じられない。もし本人が出版譜の作成に関わっていたとしたら、細かな推敲を施したことが想像される(ピアノ版の初演は作曲者の死後70年以上たった1989年)。

 オーケストラ版とピアノ版は基本的に同一の音楽であるが、細かな部分に関してはかなりの違いがあり、基本的には別ヴァージョンとしてその違いをそのままにしておいてもいいし、必要に応じて両ヴァージョンを折衷することも可能であろう。

ただし、Universal Editionより現在出版されているピアノ版の出版譜には、マーラーの自筆譜の単純なミスと思われる部分がそのまま印刷されているところがあり、演奏に際しては注意が必要だ。

問題となる箇所は以下の譜例に示した部分(100小節目〜)だ(ピアノ・パートは簡略化している)。

オーケストラ版と比較してみるとすぐわかるのだが、途中から歌唱声部とピアノ・パートが1小節ずれて赤丸の部分でとんでもない不協和音が生じているのだ。他の部分も、ここまであからさまではないが、歌とピアノの関係がちぐはぐになってしまっている。ピアノ・パートの赤線を記したところ、オーケストラ版にはもう1小節あるのだが、それがピアノ版に欠けているため、8小節間にわたってずれが生じているのだ。

以下の譜例は、同じ箇所のオーケストラ版、赤で囲んだ部分がピアノ版に欠けている。

この部分と似た楽想は何度も現れるので、そこと比較してみても、ピアノ版の該当箇所は、この版独自の改変ではなく、マーラーの筆写ミスであることはほぼ確実だ。マーラー自身が出版譜の校正をしていれば絶対に修正していた場所であろう。

ピアノ版の校訂報告には、このずれについて言及されているのだが、それによって音楽的な不整合が生じることは指摘されておらず、校訂者はこれを筆写ミスではなく、両者の版の違い(つまりこちらもあり得るヴァージョン)と認識していた可能性が高い。

以下の譜例は、現行のピアノ版の楽譜に、オーケストラ版を元に欠けている1小節を追加し、両者の不整合を解決したもの。

赤い音符が挿入した音符である。この前後の右手のメロディーは、オケ版とピアノ版は微妙に違っていることもあり、単純に赤い音符を挿入しただけだと前後のつながりが不自然になってしまう。青く記した音符のピッチに関しては何らかの修正が必要となるだろう。