マーラーの「告別」は、オーケストラ(またはピアノ)の長大な間奏部分を挟んで、大きく二つの部分に分けられる。
前半部分の歌詞の原典は孟浩然「宴陶家亭子」、後半は王維「送別」であり、そのべトゲによる自由なドイツ語訳にマーラーがさらに改変を施したものが歌詞となっている。
前半部分では、最後の別れをしようと友を待つ「私」の心情が語られ、後半部分は、その彼と、やってきた友との別れの場面となる。
その後半部分、冒頭の歌詞は以下のとおり。
彼は馬から降り 彼に別れの盃を差し出した
彼は彼に尋ねた どこへ行くのか
そして なぜ行かねばならないのかと
彼は涙声で語った「おお友よ
この世では 私は幸福とは無縁だったのだ!
どこへ行くのかって?
私は行く 山の中を彷徨うのだ
この部分の状況を簡単にまとめると、
- 彼が(馬から降りて)彼に別れの盃を差し出した。
- 彼は彼に「どこへ行くのか?」と尋ねた。
- 彼は「私は山の中へ行く」と語った。
となる。
前半部分とのつながりを考えると、友を待っていた「私」とその「友」の二人がいることが推測できるが、この文章では、「彼」が二人いることとなり、この部分を読んだだけでは、どちらがどちらなのかが意味不明である。そのため、様々な解釈が可能となり、最終的に「去っていく人」がどちらの「彼」なのかを判断することは、論理的に不可能だ。
実は、この部分はべトゲの訳詩にマーラーが改変を加えていて、べトゲの訳詞の大意は以下の通りとなる。
- 私が(馬から降りて)彼に別れの盃を差し出した。
- 私は彼に「どこへ行くのか?」と尋ねた。
- 彼は「私は山の中へ行く」と語った。
前半部分からの内容の繋がりを考えると、べトゲが「私」としているところをマーラーが「彼」に変えたのは、馬から降りて盃を差し出す人を、前半の「私」ではなく、「待っていた友」という設定にしたかったのだろうということが推測できる。
「私」を「彼」に変更したのにもかかわらず、「彼」は「彼」のままとしたため、「彼」が二人いるという奇妙な状況になってしまったが、詩の流れから考えると、べトゲが「彼」とした人物は、マーラーの改変版では、前半の「私」だと考えるのが自然だろう。
(もし逆に、盃を差し出した人の方が前半の「私」であるならば、前半、琴を手にして彷徨っていた私が、馬に乗ったまま友を待ち、友がやってきたところで馬から下りるという不自然な状況となってしまう)
マーラーがべトゲ版の内容を尊重した上で改変したと仮定すると、状況は以下のように解釈できる。
(「男」=友を待っていた(前半の)私、「友」=友)
- 友が(馬から降りて)男に別れの盃を差し出した。
- 友は男に「どこへ行くのか?」と尋ねた。
- 男は「私は山の中へ行く」と語った。
つまり、去っていくのは、前半部分の「私」ということになる。
それでは、マーラーはなぜ、前半の「私」を三人称である「彼」としたのであろうか?
さらに、前半では一人称視線で現在形で語られていたものが、なぜ後半では(一人称がなくなってしまった)俯瞰する視点による過去形での記述になっているのか、という疑問も生まれる。
本来別のものであった二つの詩を強引な形で一つの詩にまとめることで意図せず生まれてしまった単なる不整合なのであろうか? それともマーラーの何らかの意図があるのだろうか?
その疑問を解く鍵は、マーラーが付け加えた最終部分にあるように思われる。
この部分の歌詞と音楽(譜例1)は、以下のとおりである。
春 愛しい大地は あまねく花と新緑に満たされる
あまねく永遠に はるか彼方まで青々と輝いている
永遠に… 永遠に…
この部分を、(もうこの世にはいない)去っていった私が現在見ている彼岸の情景を、超越的な視点で述べたものと解釈すれば、後半の過去形で語られた部分を、この時点からの回想と解釈できるので、それほど不自然ではなくなる。
そして、私が彼岸に旅立ってしまったら、もはや「私」という狭い意味での自己は解体されるのだから、前半部分の「私」が、後半部分の「彼」に変わってしまうことも一応は説明がつく。
時系列が過去、現在と様々に揺れ動く、映画でよく見られる手法の先取りとも解釈できるだろう。
音楽面からも、この仮説を検証してみよう。
この部分に付けられた音楽は、前半部分の以下の歌詞が歌われる箇所(譜例2)の、自由な再現部と解釈できる。
おお友よ あなたのそばで 今宵の美しさを味わいたい あなたはどこにいるのか? 私をずっと一人きりにして 琴を手にして 私はあてどなく彷徨う 道では やわらかな草が膨らんでいる おお美よ! 永遠の愛と生に酔いしれた世界よ!
ここでは、「私」が演奏している琴を模したと思しき音形がハープとマンドリンによって繰り返される(譜例3)。この音形は、この再現となる最終セクションにも(途切れ途切れに)現れることから(譜例4)、両者の話者が同一であることを、音楽面からも推測できる。
そして、その音形が、最後に何度も繰り返される「永遠に ewig」というモチーフ(譜例5)を内包していることは、その推測をさらに後押しする材料になるだろう。