シュトックハウゼン・レクチャーの概要と補足

By | 2015-10-31

本日のBuncademyでのシュトックハウゼンに関するレクチャー、満席となりました。ご来場いただいた皆様、ありがとうございます。

この種のもので陥りがちなのですが、時間が余ることを恐れて、今回も内容を詰め込みすぎ、かなりの早口であわただしいレクチャーになってしまいました。備忘録の意味も兼ねて簡単に内容をまとめておきます。(一部、レクチャーで触れ切れていないところも補足してあります)

—–

シュトックハウゼン出版(1975-)は、理想的な形での楽譜の出版、音源の発表の場所として機能している。特に音源は楽譜に書き切れない情報が音声として直接記録されていて、正しい演奏解釈のためには、場合によってはスコアよりも重要視されうるものである(音そのものによる直接的なコミュニケーションの重視)。
シュトックハウゼン講習会(1998-)は、自作の理想的な上演の伝統を後世に残すための理想的な環境である。
特定の演奏家との親密なコラボレーションも、理想的な上演のために必須である。初演に際しては、リハーサルを重ね、楽譜の細部をブラッシュアップをしていく。

シュトックハウゼン作品でもっとも重要視されるべきは音量バランスである。彼の音楽を特徴づける多層的な構造が聴き取れるように、各楽器間の音量バランスには細心の注意が払われるべきで、初演前(場合によっては後年の改訂時)の楽譜の修正の多くはこの点にある。

1950〜60年代には、不確定性を用いた一連の作品群が多く作曲された。
演奏者の創意を生かすことも目論まれたが、概して演奏家の能力を過大視する傾向があり、そうした作品の最初期の試みである『ピアノ曲XI』(1956)で、すでに正確な演奏は困難、後年はあらかじめ固定されたヴァージョンを作成して、それを演奏することを推奨する。いくつかの作品では、不確定な要素を固定した新ヴァージョンが作曲された。(例:3xREFRAIN 2000, MIXTUR 2003, STOP und START)

1965年以降になると、+-などの記譜法でシンプルに書かれ、即興的要素が高まった一連の作品が生まれるが、これらは長期間のコラボレーションを重ねた演奏者の存在を前提として作られている。
短いテキストのみによる直観音楽もこの延長線上にあるが、実はその演奏実践はきわめて具体的である。
一見、神秘的にみえるテキストも具体的な演奏法、音響が想定されていることを、シュトックハウゼン自身の膨大なテキスト、アンサンブルとのリハーサルの記録(未出版)から理解することが出来る。

「私は降霊術をしたいのではない。私は音楽をやりたいのだ!神秘的なことではなく、具体的な体験に基づいた絶対的に直接的なものを求めている。私が心の中に思い描いているのは不確定なものではなく、直観に基づいた確定的なものなのだ!」(1968年のダルムシュタット講習会にて)

ここでも重要視されているのが、各楽器間の音量バランスである。全員が好き勝手に演奏してカオスになるのを防ぐために、ばらばらなタイミングで長い沈黙を置き、全体のサウンドの透明度が高まる工夫が随所になされている。

この試みも、シュトックハウゼンの満足の行く形にはならず、1970年代以降は、ふたたび確定された楽譜による作曲に回帰する。
しかし、シンセサイザーのプログラミングや、管楽器の微分音の指使いなどを演奏者に任せる、など演奏者の創意を生かせる作品もいくつか作曲されている。

作品の演奏に関しては、スコアの厳密な遵守を要求しているが、機械のように画一的に演奏することを求めているのではなく、スコアの厳密な再現からすらも通過する演奏者の個性の表出は、むしろ好んでいる。
また。クリックトラックは必ず自分の肉声でカウントしたり、多少不正確なリアリゼーション(TELEMUSIK)であってもそれを許容することがあるなど、アナログ的な感性を重視する側面もある。