[備忘録] 京響、グルッペンを聴いて

京都市交響楽団創立60周年記念 特別演奏会

2016年12月23日
京都市勧業館みやこめっせ(第3展示場)

指揮:広上 淳一、高関 健、下野 竜也
演奏:京都市交響楽団

みやこめっせを会場に選ぶことにより、コンサートホールでは困難な3つのオーケストラの配置が理想的な形で実現可能に。
世界初演も、同様の理由でケルンのメッセ会場で行われた。

3群のオーケストラを聴衆を取り囲むように配置することは、通常のコンサートホールでは極めて困難で、一つのステージに3群のオケを無理やり配置させることもしばしば行われる(例:アバド&ベルリン・フィルの演奏)。
それでは作品の空間効果が損なわれるだけでなく、演奏のクオリティにも悪影響を及ぼす。

2009年、サントリーホールでの演奏では客席の左右に特設ステージを作り、理想的な上演が期待できると思いきや、ステージが客席と比べて高すぎ、音が上方に抜けてしまうことにより、空間移動の効果はクリアーに体感できなかった。

3つのオーケストラの音響を明確に分離し、聴衆を取り囲むように配置することはシュトックハウゼンの重要なこだわり。
作品の構成も各オーケストラのによる短い楽想がスイッチを切り替えるように交代していくコンセプトなので、音像が混じってしまうと、この意図は半減してしまう。

今回は、スコアの指定通りのステージの高さ(約1m)だったので、3つのオーケストラの方向感を充分に体感することができた。
コンサートホールのようなリッチな残響感はないが、そのデッドさのおかげで3つのオーケストラがくっきりと分離して聞こえた。
作品の全編に散りばめられた、繊細な音響の対話もクリアーに聴取することができ、シュトックハウゼンが思い描いた音像に迫ることができたのではないだろうか(大オーケストラによるスペクタクルではなく、巨大な室内楽という印象)。私自身、今回の演奏を聴いて、初めてこの作品の真価を知った思いが。

意外にも、3つのオーケストラをモノラルにまとめ、左、中央、右に定位させた自演盤(Stockhausen-Verlag)の極端なミキシングに近い印象。

スコアの指示とは異なる楽器配置は疑問。
特に中央の第2オーケストラは、打楽器が客席側、弦楽器が舞台奥になる配置になっていたため、弦楽器の音が弱く、打楽器(特に革系)のバランスがしばしば大きすぎる結果に。エレキ・ギターの増幅はあまりにも大きすぎ、オケの他の楽器から存在感が遊離する結果に。
楽器の音量バランスについては、シュトックハウゼンはスコアに詳細な注意書きを残していて、3人の指揮者以外に、客席で音量バランスをチェック、修正する音楽監督的な人員の必要性にも言及しているが、こうしたケアがなされていたのかどうかは疑問。

練習番号8、2小節目の鍵盤グロッケンのクラスターを低域から徐々に手を離していく指示のところが、通常のグリッサンドで演奏され、スコアの意図と全く違う演奏結果に。

2度目の演奏の前で、一度客席を空にして、座席を変えることを強要していたが、これは個人の自由にとどめるべきであった。
2度演奏する趣旨は、座席の違いによる音響の変化を楽しむことではなく(副次的な楽しみとしてはアリ)、複雑な2度聴くことによって作品をじっくりと聴取することと、演奏曲目を絞ることによってリハーサルの時間を確保し、演奏の精度を高めることがシュトックハウゼンの狙いだったから(シュトックハウゼンの他の作品でも同様の例は多い)。

演奏は恐々としていたところもあり(特に1回目)、上述の問題点も散見されたが、全体としては、指揮者、オーケストラの真摯な取り組みが実を結んだ好演と言える。

日本全国の現代音楽ファンが当然のように京都に集結。企画が興味を引くものであれば、このようなコアな内容であっても集客ができるということ。