20世紀以降の現代音楽と称されるジャンルの音楽で一般の人がイメージするのは無調性、不協和音などでしょうか?この現代音楽というジャンルに属する声楽曲、特に20世紀後半以降のものにはもう一つ重要な特徴があります。それは言葉と音楽の関係です。19世紀以前の声楽曲では(ヴォカリーズのようなごく一部の例外を除いて)ある詩なり(オペラの)台本なり、なんらかの言葉に音楽がつけられ、音楽がその言葉のもつ雰囲気を伝える、あるいは言葉が作曲者になんらかの音楽的アイデアを与えるという関係にあって、音楽が、例えば言葉のイントネーションを無視するような形で言葉を「破壊する」ことは暗黙の内にタブーとされてきました。それはシェーンベルクやヴェーベルンのような20世紀前半において革新的であった作曲者においてもそうでした。しかし20世紀後半の声楽曲においてはそうした関係に少なからぬ変化が起きます。今回の演奏会に取り上げた曲目はそうした側面を非常に意識したものばかりになっています。
まず、ベリオの「セクエンツァ III」。ベリオは声の持つ肉感的、官能的な要素を作曲上の大きな要素として使用するために、笑い声、息を吸う音、舌打ち音、などそれまでの声楽曲では決して本質的な作曲上の素材として取り上げられなかった(オペラなどで一種の演出として使われることはありました)ような声の素材が通常の歌声と完全に同格に扱われています。もちろんこうした音素材は言葉ではありませんが、逆に言うとそれまでの声楽曲では声を「言葉を発する楽器」として使っておらず、こうした非言語的領域における広大な声の音色のパレットが使われることなく放っておかれたとも言えるかもしれません。ベリオのこの作品には歌詞として英語の短いテキストが使用されていますが、このテキスト自体が非常に抽象的である上に、ベリオはそのテキストをさらに音素の単位までにバラバラにし、作曲上の素材として自由に組み替えることで言葉が極めて抽象的な響きにまで変容させられています。こうした発想はかつてのように音楽が言葉に仕えるのではなく、音楽が言葉を自由自在に作曲上の素材として支配する、という言葉と音楽の関係を逆転させています。
湯浅譲二の「天気予報所見」に於ては、言葉や演劇的な要素とそれらが持つ「意味」の関連性についての考察が作曲の出発点となっています。例えば私たち日本人が「つくえ」という時には勉強したり事務仕事をやったりする、あの「机」だなということが容易に想像できるのですが、日本語を全く解さない外国人がこの「つくえ」という言葉を聞いても、それは意味のない全く抽象的な響きにしか過ぎません。つまり言葉の響きとその意味の関係というのは、ある言語のルールの中で勝手に結びつけているだけのものであって、仮に「つくえ」と発音される言葉が「うどん」という意味を持つことに決めてもなんの不都合もないのです。同じように立ったり座ったり、という動きに何らかの意味付けが必要である必然性は全くありませんし、そもそも音楽自体も「意味」の全くない抽象的な音響現象にしか過ぎないのです(バッハの「フーガの技法」にどんな「意味」があるというのでしょう!)。しかし、私たちはこうした言葉や動きになんらかの意味を結びつけようと思わずしてしまい、「これは机です。」といってうどんを指さすと滑稽に感じてしまうのです。この作品はアメリカの天気予報の記事を歌詞として用い、それをまったく抽象的な音響素材として作曲に使用しているのですが、(一般的な意味において)全く関係のない演劇的要素を付加されることによって、しばしば(音楽的、演劇的に)ちぐはぐでユーモラスな状況を醸し出しています。
シュトックハウゼンの「ティアクライス」では、記譜された楽譜においては(親しみやすい)メロディーに歌詞が普通についているだけで、音楽と言葉の関係は19世紀までの伝統的な歌曲と全く変わりません。そういう意味では一見非常に保守的に見えます。しかし、作曲者が演奏者に求めているように、この12の短いメロディーを自由に変形させそれぞれ3〜4回ずつ繰り替えす時、シュトックハウゼンの他の作品(「カレ」「モメンテ」「シュティムング」「光」など)で展開させられている声の自由自在な取り扱いのテクニックをここに応用することによって、この一見保守的な作品が非常に斬新な作品として甦ることになります。シュトックハウゼンもベリオと同じように声を様々な響きを生み出す広大なパレットとして認識していますが、シュトックハウゼンはより声を客観的、抽象的に取り扱っています。ベリオにおいて声は肉体から発せられるものという意識が強いのに対して(彼の声楽作品はしばしばセクシャルなイメージを喚起させます)、シュトックハウゼンは一種の万能シンセサイザーとして声を取り扱っていて、例えば母音の変化は倍音の変化として捉えられ、子音はホワイトノイズとして多種多様なアーティキュレイション、ピッチ、音色の変化を与えられます。手拍子や舌打ち音のような素材も声の拡大した要素として頻繁に使用されます。とはいえこの作品のそれぞれのメロディーは一度は本来のメロディー、歌詞で歌われることが求められているので、完全に言葉が抽象化してしまうのでなく、意味がはっきり理解できる「ことば」、あるいは伝統的な「うた」としての状態から、抽象的な音素材に分解された「ひびき」の状態まで多種多様に変容することになります。さらに、シュトックハウゼンはこれらの歌詞を複数の言語を使って繰り返すことを求めているので(作曲者自身によるドイツ語、英語の歌詞に加え、私自身日本語の訳詩も制作しました、またスキャットやヴォカリーズなどでの演奏も可能です)言葉が変化することによる音響の変容、聴衆一人一人の言語環境による意味の理解度の増減による「ことば」と「ひびき」の間の意味性の横断など、さまざまな興味深い現象を味わうことができます。
川島素晴の新作「3つのインヴェンション」に関してはまだ作曲が未完成なので、細かいことは言及できませんが、現在完成している部分に関して述べれば、「日本語」という独特のアクセント体系をもった言語構造を音楽構造に反映させようとする試みが非常に特徴的です。コラージュ的にランダムに組み立てられた日本語の単語断片の寄せ集めは文章としては当然何の具体的な意味も持ちません。しかし、日本語としてのイントネーションを忠実に音楽にすることによって、それぞれの言葉をはっきりと認識することができ、逆にそれが全体としてのナンセンスさを強調しているところや、そのイントネーション自体が抽象的な作曲素材として積極的に活用されているところなど、ほかの作曲家とは一味違う「ことば」へのアプローチが非常に興味深く、これから仕上がってくる部分がどのようになるのか非常に楽しみです。
クセナキスの「カッサンドラ」はギリシア悲劇の台本を歌詞にしていて、言葉を大きくいじることなく音楽をつけているので、そういう意味では一見極めて普通の言葉の扱いをしているように見えますが、歌詞の付けられたバリトン・パートはほとんどすべての部分において常にグリッサンドで歌われ(バリトンパートはあたかも何かのグラフであるかの様に延々と続く曲線で記譜されています)、しかもその半分以上の部分がファルセットで歌われることにより視覚的にも音響的にも非常にアブノーマルな印象を与えます。こうした状況ではもはや聴衆はギリシア語の歌詞が付いていることすら忘れ、パワフルでグルーヴィーな打楽器パートにのせて描かれる、音の曲線の動きに主たる興味が引きつけられます。つまり作曲上の強烈なアイデアがそれ自体で言葉から意味性を剥ぎ取り抽象的な響きへと変容させている、と言えます。シュトックハウゼンのような作曲家においても、究極的には声はあくまでも声であったのに対してクセナキスのこの作品では伝統的な意味での声のアイデンティティーがほとんど失われていて、響きの上でも肉体感の全く欠如した極めて抽象的なものとして取り扱われています(つまり、「うたう」ための声でなく、「音響」を発するための声)。これはファルセット領域の多用による倍音の欠如した独特の「薄い」響きや、常時グリッサンドすることによって伝統的な「うた」とのつながりを完全に断ち切っている、ということによるものと思われます。実際譜面に接してみると、通常の声楽曲のようにギリシア語のテキストの内容をそれをどのようなフレージングで表現するか、ということはほとんど全く必要とされていない、というかむしろ拒絶する作曲法になっていて、楽譜に描かれた多彩な曲線のキャラクターの違いをどのように描きわけるかという全く器楽的な作業が演奏の準備に際して重要になっていることが分かります。
以上のように、声には「ことば」を伝える言語コミュニケーション装置、肉体的でより動物的な感情を伝える身体器官、多彩な音響表現(伝統的な「うた」もここに含まれます)を実現するための自由自在な楽器、などさまざまな側面がありますが、今回演奏する作品ではそうした声の様々な側面に違った角度から光が当てられています。声の多彩な音色、声が紡ぎ出す様々なイメージ(言語化できる具体的なものから、抽象的な領域までの広範囲の意味性のグラデーション)がたった一晩のコンサートのプログラムの中で変幻自在に動き回ります。是非ともご期待を。