京都の龍安寺に触発されたこの作品にはオーボエ、コントラバスなど数種類のソロ楽器のための版があり、それぞれの版は単独または重ね合わされて演奏される。版の組み合わせ方は自由であるが、必ず打楽器またはオーケストラによるオブリガートとともに演奏されなくてはならない。
終始ゆっくりとしたグリッサンドで演奏されるメロディー(石を定規代わりにして描かれた曲線で記譜されている)と、乾いた音色で演奏されるオブリガートの静止したリズム(12~15拍の長さの各ユニットごとに、様々にに配置された5つの音符が演奏される)の組み合わせは龍安寺の石庭を連想させる。
声のための版では、ライヴで演奏されるパートと事前録音された最大3声のパート(省略可)が同時に演奏される。
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マイクで増幅された無伴奏の声のための作品。
Mesosticとは複数の行から構成されたテキストの中央に特定の文字列が縦に表れるように配置したもの。
62のMesosticから成る本作品ではMerceまたはCunninghamの文字列が使用されている。テキストはMerce Cunninghamの著書や彼の蔵書から易経によって無作為に抽出されている。
それぞれのMesosticは1文字ずつフォント、サイズなどが異なっていて、さらにテキスト全体が一つのオブジェに見えるように配置されている。
演奏に際しても、一塊のテキストを単一の叫び声であるかのように中断なく演奏されることが求められている。フォントやサイズの違いは唱法の様々な違いとして即興的に解釈される。
少なくとも5つのMesosticが長い沈黙によってはっきりと分離されて演奏されなくてはならない。演奏者は、Mesosticの演奏時間とそれに続く沈黙を合わせた時間が一定の時間になるように設定するが、この時間は1分30秒以上でなくてはならない(例えば1分30秒と設定した場合、Mesosticを30秒で演奏したとするとその後の沈黙は1分となる)。
「Music for」という未完成のタイトルのついた声や種々の楽器のための一連のパート譜は、任意の重ね合わせで演奏可能である。例えば、3人で演奏する場合なら「Music for Three」とタイトルが完成される。
本日は声のためのパート譜のみを使用した一人の演奏者による演奏である。
「piece」と「interlude」と名付けられた断片の連なりにより、この作品は構成されている。それぞれの断片の開始時間、終了時間はタイム・ブランケットという晩年のケージが好んだ方法で規定されている(例えば断片のはじめに「2'25"↔3'25"」と記されていれば2分25秒から3分25秒の間の任意の時間に演奏を開始する、など)。
「piece」は沈黙で区切られた単一の弱音の繰り返しと、レガートで演奏される子音や母音の連なりの2種類のイヴェントの組み合わせで構成されているが、ピッチに関しては全く記譜されていない。
「interlude」では相対的なピッチとアーティキュレーションの記されたメロディーの断片を自由なヴォカリーズで歌う。
全体を演奏すると30分になるが、その中の連続した任意の部分のみの上演も可能である。
この作品のための楽譜には通常の五線譜の代わりに、点や曲線などが描かれた6つの透明シートが封入されている。演奏者はこのシートを指定された方法で重ね合わせ、演奏用の楽譜(と歌唱のための意味のない音素からなるテキスト)を作成しなくてはならない。いわば演奏者には、楽譜そのものではなく「楽譜作成キット」が提供されているということになる。
演奏時間などの細部は演奏家に委ねられていて、同時期に作曲された「ピアノと管弦楽のためのコンサート」の任意のパート、「フォンタナ・ミックス」などの不確定性を用いた作品との同時演奏が可能である。
ちなみに本作が2作目となる「声のためのソロ」のシリーズは96作という膨大な分量に及ぶ。
「ソング・ブックス」は89曲からなる歌手のための作品集であるが、そのタイトルとは裏腹に「山火事の録音を再生する事」と指示があるだけの「歌」でない作品も含まれている。どの作品をどういう順序で何人の歌手で演奏するかは全く自由で、それぞれの作品も図形楽譜も含む多義的な解釈を必然的に生み出す方法で記譜されているため、演奏者次第で出てくる音の結果は当然全く異なったものとなる。いくつかの作品には声を電子的に変調させるものがあるが、演奏者が電子変調の結果を意図的にコントロールできないように巧みに作曲されているものも多く、唱法の使い分けによる声の音色のパレットをさらに拡張している。
ケージのこうした作曲法は一見演奏者に自由を与えているようであるが、ケージの指示に従って自分自身用の演奏用ヴァージョンを作る作業は実は結構「面倒臭い」ものである。その面で複雑な作業の指示に従う過程で、演奏者は様々な選択や決定をしているにも関わらず、自分の演奏結果をコントロールできないし、もちろん作曲者自体も演奏結果をコントロールできない。こういうところに音楽を「意図」から解き放たれた「音そのもの」に回帰させようというケージの思が反映している。
