現代音楽の最近のブログ記事
管弦楽:東京都交響楽団
以前から謎の存在であったシュニトケの交響曲第9番のCD(左画像)が発売されました。3楽章35分程のこの作品は、最晩年のシュニトケが、度重なる心臓発作の末、右半身不随の状態で左手でスコアが書かれたという壮絶なドラマを持っています。
10年以上前の作品が、なぜこれまでお蔵入りになっていたかというと、そうした状況で作曲されたため、あまりにも自筆譜が判読しがたいものだったからなのです。CDの解説やSikorskiから出版されているスコアにその自筆譜の一部を見ることができますが、震えるような筆跡で埋め尽くされた自筆譜はかなり衝撃的です。スケッチではなくてスコアがこの状態ですべて書かれたことにも執念を感じさせます。ラスカトフというシュニトケとも交流のあった作曲家が、この状態の楽譜を読める形に再構築し、このCDの演奏へと至った訳です。
出版されているスコアはシュニトケが書いた部分、ラスカトフが手を加えた部分の区別が付くようになっていますが、マーラーの第10交響曲のような未完成作品の大規模な補筆でなく、細部の修正にとどまっていることがよく分かります。つまり、第4楽章以降を作曲する意図があったかどうかは不明ですが、遺されている第3楽章までのスコアは完成しているとみなしても良いということです。
修正している内容は、全体に大まかな記譜しかないダイナミクス記号の付加、勘違い、あるいは不注意で記譜されたと思われる音符の訂正、若干のオーケストレーションの訂正、判読不能な箇所の補筆(そこには「判読不能」と注釈がついています)など、それぞれの箇所は音符1〜数個のマイナーチェンジですが、全曲にその種の訂正が大量にあって、しばしば何故そのように訂正したのか、という意図が分からず恣意的に思える部分もあります。
出版社には是非とも自筆譜のファクシミリも出版して頂きたいところです。
ちなみに、このCDに関してはレコード芸術5月号にも短いレビューを書きましたので、ご興味のある方はそちらもお読み下さい。
本日は池袋某所で行われた木下正道、多井智紀両氏のライヴへ行ってきました。
糸を使って終始微音に徹する演奏でしたが(あやとりの絵本を見ながら演奏したりもしていました。。)、強烈だったのはのはこの会場の「場末」感です。
お客が10人来たら超満員のせまくて隠微な空間、壊れた看板の写真が象徴するような、ゆる〜い雰囲気(トイレは雨漏りで床が水浸しでした。。)がかなりツボでした。
1ドリンク付でしたが、出演者自ら冷蔵庫から缶を持ってきてもらったり、上のコンビニにおつまみを買い出しに行ってもらったり、なかなかお目にかかれない展開の連続に驚愕。
もっともチラシの壊れっぷりがすごかったので、ある程度予想はついたのですが。。。
先日電車に乗っていたら、養護学校の遠足と思しき一団に出会いました。
小学校低学年くらいの子供が10人以上座席に座っているのですが、知的障害者の子供も多く、その内の二人がかなり頻繁に奇声を発していました。
その内の一人が、「けけけ、こか、しゅぱ・・・」みたいな感じで延々と無意味なことばを発し続けているのですが、その子供に対して突如ものすごいシンパシーが湧いてきました。
これってベリオのセクエンツァみたい、つまり、私がよく歌っている前衛声楽曲に近いことを日常生活の一部としてやっているにすぎないと感じたからです。
このような子供を育てていくのは、色々と苦労があるとは思いますが、色々な物事に対するピュアな感覚を変なものに毒されずに持っているということには、ある種のうらやましさを感じますし、多少大袈裟に言えば「聖なる」存在ともいえるかもしれません。
廣瀬量平氏の名前を知ったのは中学生の頃、いくつかの合唱曲を歌った時です。
数年前ある男声合唱団から、廣瀬氏の合唱曲の代表作でもある「海の詩」の男声合唱版(原曲は混声合唱)の編曲を依頼され、作曲者ご本人より、私のアレンジに対して(間接的にですが)お褒めの言葉を頂き、うれしく思った事を思い出します。
特に混声合唱でポリフォニックに絡み合う部分を男声合唱に圧縮するのは非常に苦労しました。
心よりお悔やみ申し上げます。
さて、話は変わりますが、明日は東大でシュトックハウゼン三昧です。
「シュピラール」についてのワークショップを行った後、コンサートで「ルシファーの夢」「7つの日の歌」「シュピラール」の3曲を演奏しますが、何れも再演ばかりなのに、三曲並べると非常にプレッシャーが高く軽くビビってます。
うまくいきますように。
本日のシンポジウムもご来場ありがとうございました。パネラーであることを忘れ、清水氏の話に「へ〜」となることしばしばでした。
昨日は、明日の本番(WINDS CAFE)で音響を担当して頂く有馬氏と、打ち合わせや簡単なリハーサルをしました。
こちらは、生演奏と同時に演奏する録音音源の音量や音色バランスを客観的に取ってもらう程度のつもりでしたが、様々なこだわりやアイデアを提示してもらったので、きっと素晴らしい音響が期待できるのではないでしょうか。
それが影響してか、起床前に見ていた夢は、Dの付近で鳴り続けるサイン波に自分の声を重ねて、うまく唸るとか唸らないとか試行錯誤している夢でした。
正確には、視覚的印象の全くない夢なので「聴いた夢」というのが正確な表現ですが。
ちなみになぜD音かというと、今回演奏するルシエのサイン波の音源はD音のユニゾンから始まり、最後にD音へ収束して行くからです。
ということで明日の本番ご来場をお待ちしております。
参考記事:曲目の紹介
作曲家のマウリシオ・カーゲル氏が昨日76歳で亡くなったようです。
ソース
カーゲルの作品は、今月28日のWINDS CAFEで「バベルへの塔」を演奏予定でした。
奇しくもこれが追悼演奏となってしまいます。
作曲家・鈴木治行氏の新作CDです。鈴木氏の作品は昨年の双子座三重奏団のライヴで《蛇行》という異様な作品を初演させてもらいました。バリトンの歌う歌詞が、作曲のコンセプトを解説する自己言及的な面白さを狙っていましたが、このCDで収められている作品は歌ではなく語りがメインで、そこに2〜4人の器楽アンサンブル(声を含むものもあり)や様々な(リュック・フェラーリの影響を思わせる)録音音源が絡みます。
器楽アンサンブルが、語られる内容を音楽化したようなパッセージを演奏したかと思うと、アンサンブルの演奏する部分の楽曲解説を語りが行ったり、と意味性の図と地が絶えず揺れ動くような不思議なコンセプトが、作品ごとに異なるアイデアのもので展開されます。
演奏の背景のように環境音の録音が再生されていたかと思うと、そのピッチがグリッサンドで上下し、その変化を楽器が模倣し始めるなど、異なった要素の図と地の反転が不意に起こるのもスリリングですし、語られる言葉と音楽の関連・無関連の遊びにも様々な仕掛けが施されています。
徹底的に無表情に語られる語りの声色と隙間だらけのアンサンブル部のテクスチュア、その隙間に「映写」される様々な環境音の全体が醸し出す音の雰囲気はラジオ・ドラマを思わせます。もともとはコンサートなどでの生演奏で演奏されていた作品も、このようにCDにまとめられると、はじめから「録音されたもの」として聴かれる前提で作曲されたように聴こえる効果が興味深いです。
iPodに入れて出先で聴くと、耳元に「変態的」な語りがささやきかけるのがとても気持ちよいです。
現代音楽界も、このような才能がもっと活躍できる雰囲気になると、もっと刺激的なものになるでしょう。
お薦めのアルバムです(ジャケット画像がamazonへのリンクになっています)。
このタイトルを見ただけで分かる人にはオチが分かってしまうと思いますが、疑似ライヒ効果は簡単にできるので、ちょちょちょいと作ってみました。
昨日、サントリー・ホールへこの大作全曲(休憩込みで2時間)が演奏されるということで、聴きにいきました。
ヴィオラの演奏する倍音列からとった旋律が、最後に大オーケストラの響きへとゆっくり拡大していく効果は、聴覚的にも視覚的にも生演奏で体験しないと分かりません。
単一の音響に含まれる微細な倍音の構造をオーケストレーションするような音楽なので、楽器間の音量バランス、微分音、金管のミュートの処理など、演奏に際して相当に細やかな配慮が必要ですが、昨夜演奏を担当した東フィルは大健闘だったと思います。なんといっても指揮のピエール=アンドレ・ヴァラドが作品を熟知し、鋭敏な耳で的確にリハーサルを進めていったのが大きいのでしょう。
グリゼー門下の夏田氏の曲目解説も秀逸です。
この種の解説は読んで後悔する内容のものが多いだけに、作品をきちんと把握した上で書かれたこのような文章は貴重です(というか、本来そうでなくてはなりません)。
フランス料理のような微細な音色を持つオーケストレーションの印象を言葉で表すのは難しいですが、液状化した音響が固形物に変化したり、リゲティ風のミクロ・ポリフォニー的な音塊が単一の音響へと収束していったり、音響の空間移動にも一定の配慮があったり、など音色マニアにはたまらない音響実験が満載でした。
気息音風のノイズを多用したラッヘンマンが「子音の音楽」ならば、倍音変化をオーケストレーションしたグリゼーは「母音の音楽」と呼べば良いのでしょうか。ドイツ語とフランス語の言語の特徴が影響しているのか、などと考えたりもしました。
特に後半は大オーケストラを使って、「あ〜う〜い〜」などと言葉を話させているような印象を受けましたが、ホーミーをオーケストレーションするとこんな感じか、などと妄想してみたり。
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プログラム冒頭に、来年シュトックハウゼン《グルッペン》をやる、と書かれていましたが、昨日サントリー・ホールの舞台をみて、ますます疑心暗鬼になりました。
聴衆の左、正面、右に完全に分離された3群のオーケストラを配置するためには一階席のかなりのスペースをつぶして仮ステージを作らなくては、無理ですし、サントリー・ホールの客席の構造を見ると、それもかなり無理があります。
ステージ上に3つのオケを配置する、という作曲者が忌み嫌う最悪な方法を考えているのだと思いますが、そこに目をつむったとしても、ステージ上にぎゅうぎゅうに奏者が詰め込まれる状態になり、良い演奏は期待できないでしょう。
《グルッペン》の音楽の面白さの主眼の一つは音響の空間移動です。
いつもはステレオで聴く《少年の歌》の音響が、4チャンネルで前後左右に移動するのを期待して、コンサートに行ったらステージ上にスピーカーが4つ並んでいたらがっかりすると思います。
《グルッペン》オーケストラの音響が、左右、正面に動き回るのを期待してコンサートに言ったら正面で左右にこそこそ動いているだけで、しかもオーケストラが密集しているのでその効果すら怪しい、ということになりかねません。
同時期のもので同じくらいの演奏の難易度(=リハーサル回数=予算)だと、名作《プンクテ》があるのに、なぜそれを演奏しないのでしょうか?


