「分からない」は素晴らしい

~現代音楽のすすめ~

 現代音楽に対しての定番コメントは「よく分からない」「難解だ」などといったものだ。しかし、分からないから縁がない、と結論づけてしまうのは、あまりにももったいない。

 私自身、クラシック音楽に興味を持ち始めた中学生時代、現代音楽に対しては「分からない」どころか恐怖すら感じていた。その頃タイミングよく出版された諸井誠の著書『現代音楽は怖くない』を即座に購入したのも、まさに現代音楽が怖かったからに他ならない。

 その後なぜか、現代音楽を中心に演奏活動を続けている私が改めて感じることは、「分からない」ことは全くネガティヴなことではないということだ。

 「分からない」ことが「分かる」ようになるためには多少の努力が必要だが、その先には、自分の世界観が大きく広がる、というご褒美が待っている。「分からない」から縁がない、と拒絶してしまうことは、本人にとっては、何も失っていないように感じるだけなのかもしれない。しかし実際は、新しい世界に接するチャンスを失っている訳で、その人は知らず知らずの内に人生を損しているのだ。

 私の場合、目の前に「分からない」ものが立ちはだかった時には、むしろワクワクしてしまう。「分からない」ものにはしばしば、自分の価値観を広げる鉱脈が隠れているからだ。

 そもそも「分かる/分からない」とはどういうことなのだろうか? 究極的には「分かる=知っている」、「分からない=知らない」ということにすぎないと私は考える。

 例えば、「現代音楽が分からない」という現象を、過去の自分の体験も踏まえて分析すると、耳慣れたメロディーや和声がそもそも存在しないのに、それを見つけようとして途方に暮れてしまう、という状態と言える。シュトックハウゼンの言葉を借りると「抽象画の中に鶏を探す」ようなものだ。そのような聴取の仕方で何も理解できないのはむしろ至極当然と言えるだろう。

 逆に、調性音楽のような慣れ親しんだ音楽が「分かる」と言う場合、一体何が分かっているというのか? ドレミというメロディーが「分かる」とは? 長三和音が「分かる」とは? おそらく納得のいく答えは出てこないだろう。「分かる」とは単に、そうした特徴的な音響現象を「知っている」ということに過ぎないのだ。逆にいうと、「分からない」音楽を「分かる」ようにするためには、その音楽独自の語り口を「知る」ことができれば良い、ということになる。そうなれば、それまで扉を閉ざしていたかのような音楽が、徐々に心を開いて語りかけてくれるようになるだろう。

 つまり、「分からない」ものが「分かる」ようになるための秘訣は極めてシンプルだ。それに繰り返し接すれば良いのだ。音楽なら何度も聴けば良いし、文章なら納得いくまで読み返せば良い。繰り返し接することで、難解だと思われていたものが少しずつ顔なじみになってきて、その面白さがじわじわと姿を表してくるだろう。

 注意しなくてはならないのは、欲張って全てを一気に「分かろう」としないことだ。バッハやベートーヴェンのような知り尽くしたかに思える古典ですら、聴けば聴くほど分からないことがたくさん出てくるのだ。ましてや耳馴染みの薄い音楽の全貌が突然理解できることはまずないと言っていいだろう。「分からない」部分はケーキの食べ残しのようなもの。ケーキと違って腐ることもないので、その部分をゆっくりと味わう楽しみを取っておくのも悪くないのではないだろうか。

 音楽に限らず世の中は「分からない」ことだらけだ。「分からないことなどない」と豪語する人がいたとしたら、その人は「分かっている」狭い世界に安住し、その外に広がる「分からない」世界の存在にすら気付いていないのだ。

 「分からない」ことは恥ずべきことではない。「分からないこと」は素晴らしい。